2009年8月29日土曜日

裏高野山 6

弟子をとらない人だった。もしかしたら、私が唯一の弟子かもしれない。
ある日、修法(しゅほう)を教えようと言われ、四度加行(しどけぎょう)を授けられた。それから私の密教修業が始まった。最初の訪問から半年過ぎた頃のことだ。
密教の修法は、すべて口伝えである。孔雀明王法、北斗護摩など、あらゆる真言密教の奥義を、この阿闍梨から手取り足取り伝えられた。山に入り、斧で木を間引いてきて、自分で護摩木(ごまき)を作らされた。私はこの山で八千枚の護摩を焚いた。阿闍梨は一週間で十万枚の護摩を焚いたこともあるという。修業は阿闍梨が遷化されるまでの五年間に及んだ。私はこの阿闍梨から得度受戒を受けている。

2009年8月27日木曜日

裏高野山 5

阿闍梨は私と同じように全国を歩いていた。私が行った場所のことを話すと、「あまり寺ばかりに行ってもしょうがない。山を歩きなさい。そして山にある神社に行きなさい」と助言してくれた。阿闍梨の父は山伏で、阿闍梨も子供のころから山に入っていたという。
優婆塞の修験者として修業を続けていたが、五十歳の時に高野山に入り、そこで阿闍梨となった。高野山では彼を管長にしようという動きもあったと聞く。しかし、阿闍梨は権力争いに嫌気がさし、下野した。故郷が東北にあり、実家に妹さんが一人で住んでいた。晩年は度々帰郷することもあったようだ。

2009年8月26日水曜日

裏高野山 4

阿闍梨はよくふらりと寺からいなくなり、何ヶ月も帰ってこなかった。
寺にはちえさんが一人いて寺守をしていた。訪ねて行っても阿闍梨がいないときは、私もしかたなく托鉢行をしたりしながら家に戻った。訪ねていって阿闍梨がいたときは、何日も寺に泊まり込むのが常だった。

阿闍梨の生活は自由気ままだった。朝は遅くまで寝ていて、十時ごろ起きることも珍しくなかった。私に対してもうるさいことを言わず、寝ていたければいつ寝ても構わないと言った。夜中にふいに寺から出ていくことも多かった。

ある晩、夜十時過ぎに出かけようとするので、「どこに行くのですか」と尋ねると、「ちょっとそこまで」と言い残して出て行った。
私はこっそりと後をつけた。阿闍梨は私がついてきていることに気がついていたが、なにも言わなかった。阿闍梨が行った先は山の頂だった。崖に突き出た岩の上に座り、座禅を始めた。座禅といっても、きちんと足を組んだものではなかった。
片膝を立て、その膝の上に肘を乗せて、頬杖をついて空の月を眺めていた。

ある冬の寒い晩、阿闍梨は毛布を持って外に行き、草の上に寝転がって、星空を眺めながら寝ようとしていた。空には北極星が高く輝いていた。
私が、「お師匠、そんなところで寝たら風邪を引きます」というと、「あんたも一緒にどうかね」と逆に誘われた。
人のことを「あんた」というのが、阿闍梨の口癖だった。誰に対しても「あんた」だった。訪ねてくる尼僧にも「あんた」とよびかけていた。寺守のちえさんだけは、「ちえさん、ちえさん」と名前をよばれていた。

2009年8月25日火曜日

裏高野山 3

寺には「ちえさん」という名前の寺守のお婆さんが住んでいた。近所の寺に住む六十歳過ぎの尼僧がよく訪ねてきて、食べ物の差し入れをしていた。阿闍梨が口にする食べ物は、稗(ひえ)、粟(あわ)、黍(きび)、大豆で、白米は一切口にしなかった。玄米を食べることはあったが、「米は腹にもたれる」と言って好まなかった。
肉や魚はほとんど口にせず、尼僧が差し入れた肉や魚を食べるのはもっぱら私とちえさんであった。たまに刺身を口にすることがあったが、二、三切だった。それも醤油をつけずに口に運んだ。刺身に醤油をつけずに食べる人を初めて見た。
よく食卓に上がったのは自分で取ってきたゼンマイやワラビの山菜を、おひたしやてんぷらにした物だった。お酒は飲んだ。面白いのはビールを温めて飲んでいたことだ。冷えた瓶ビールをわざわざ火の近くに置き、温まったところでコップに注いだ。
当然のごとく泡だらけになるが、阿闍梨は、冷えたビールは体を冷やしてよくないと言って、かまわずに飲んだ。

2009年8月24日月曜日

裏高野山 2

最初は寺の庭を掃いたりすることから始め、こちらから教えを請うことはあえてしなかった。ある日、阿闍梨(あじゃり)が私に「あんた、山に薪を取りにいってくれんかね」と頼まれた。
それから私はこの寺を訪れるたびに背中に籠を担いで薪拾いに出かけた。阿闍梨が所有しているという山は寺から離れた場所にあり、私は何キロもの距離を歩かねばならず、寺に戻れば鉈(なた)で薪割りに精を出した。

私が阿闍梨に言われて嬉しかったことは、私の頭の形を褒められたことである。
私は映画『エイリアン』に出てくる怪物にも似た自分のとんがり頭が嫌いだった。ところが阿闍梨に言わせると、この頭の形は「霊骸(れいがい)」といい、とても珍重されるものだそうだ。
古代の中国では、この形をした頭蓋骨を持つと、未来を予知するなどの霊力を与えられると信じられ、為政者たちがこぞって求めた。そのために中国では、その形をした頭を持つ者の生首を切られるという悪行が横行したらしい。
唐の時代に入唐した円珍(えんちん)が、私と同じように竹の子のような頭を持っていたので、指導僧から、不埒(ふらち)な輩に頭を狙われるから注意するように、と言われたと伝えられている。天台宗寺門派の開祖となる円珍和尚になぞらえられたことは嬉しかったが、生首をかき切られるというくだりは愉快なものではなかった。