2009年7月4日土曜日

釈 随文記

映画劔岳【点の記】に出てくる修験者の修行について解説。

先ず、古来の宗教は自然と同化を試みるアメニズム性が強いものであった。
大自然の驚異の前には、人間は何等成す術がなく、よって畏敬の念を抱かざるにはおれなかったのである。
人間はやがてそれらを【神】と崇めるようになっていくのであるが、同時にその【神】の功徳に肖かろうと、神に最も近く、神が宿ると考えた深山幽谷の山々へと分け入る様になる。
しかしそれはまた「死」を意味するものでもあり、一般の人間には近付きがたい世界でもあった。

修験者(一般には山伏とも言われる)の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ、崇拝される六世紀に実存した人物、役小角(えんのおづぬ)は、日本各地の山岳で、自ら神・仏に相まみ得えんと誓願し、ひたすら孤高な抜粋抖藪修行をしたという。
神と魔が表裏一体の如く、山もまた神と魔界が混然一体と織り成す世界なのである。
行者は山岳に於いて、神為らず、悪魔・悪鬼・悪霊・悪孤狸等の魑魅魍魎もまた、御仏の慈悲の内にあると体感するのである。

天魔外道皆仏性
四魔三障常同来
魔界仏界常同理
一相平等無差別

2009年7月3日金曜日

編集後記

皆様、老師の運命と宿業(千日回峰行)を楽しんでいただけましたでしょうか?

さて私は先日、劔岳 点の記を観てまいりました。
既に観られた方は、お分かりになるかと思いますが、あの映画は雪山で不動呪(真言?)を唱えている修験者の映像で始まります。

私は、インパクトのあるその映像に最初から心を奪われました。
映画の所々で、その”行者さん”の姿が映し出されました。

映画の主人公はもとより、その修験者が気になった私は、老師が満行された千日回峰行とは、あの映像のように厳しい場所でされたのかを映画鑑賞後、訊ねました。

それに対する老師の返答は、全く同じような場所で同じことをしていたとのことでした。
そして、運命と宿業にもかかれているように、同じような窟(いわや)に49日の間籠もっていたとのお話でした。
実際に文章だけで老師の修行を想像していたのと、実際に映像で見たものとでは、全く似て非なるものでした。
映像からうかがえる、想像をはるかに超える厳しい山奥で、こんなことを3年間も籠もってしていたのかと思うと、私たちの日常からは遠く離れた異次元の世界にいらした方なんだなとつくづく思ってしまいました。

千日回峰行の厳しさはそれを行った者にしかわからないと思いますが、その10万分の1の疑似体験をこの映画でさせてもらいました。

ご興味のある方は、こんな観点からも劔岳 点の記をご覧になられると、また違った楽しさがあるかもしれません。


(記 金子)

*ブログ行雲流水の6月23、24、25日に老師の映画の感想が載っています。まだお読みになられていない方は是非そちらもご覧ください。

2009年7月2日木曜日

19. 宿縁

曹洞宗の発心(ほっしん)僧堂で修行をしているさなかに、父方の叔父から電話があり、父が死んでいたことを知らされた。その時私は、葬儀には立ち会えなかった。
死因を聞いたが、叔父は教えてくれなかった。私は、警察に行って自分で調べた。
実際に死んだのは知らされたよりも何年も前のことだった。買い物袋を両手に持っていたところを背後からナイフで刺されたそうだ。
私は殺した男に合わせるように警察に頼んだが、殺した男は金で雇われたチンピラで、調べてみても事件の背後はわからないとのことだった。
それを聞かされたときの私の感情は、怒りや悲しみよりも諦めに近かった。

数年前、年老いた母が、実の父親は彼ではないことをポロッとこぼした。
それを聞いたとき、驚きはしたが、意外ではなかった。むしろ、それが事実であれば、ホッと安心できることだった。母からは、その時同時に実の父の名前を聞かされた。それを聞いたとき、私は全ての謎が解けた気がした。その人がなぜ私にそこまで親切にしてくれるか理解できたし、何より自分が、日に日にその人に似ていくことが分かったからだ。

私が生まれたとき、一つの嘘があった。その嘘は私の人生を苦しくした。
しかし、今はっきりわかるのは、それが私の背負った宿業であったということだ。
人はそれぞれ自分の宿縁を持っている。
そもそも、誕生日の「誕」という字には、「うそ・いつわり」という意味がある。
誕生日とは、私という嘘が生まれた日なのだ。

私は自分の宿縁を受け入れ、やっと本当の自分と向き合うことが出来た。


2009年6月30日火曜日

18. 宿命 2

山の水が名水であると聞き及んだ船戸氏は国の林業構造改革事業の一環として、板取川の近くで天然水を汲み上げ、ペットボトルに入れて「高賀の森水」として売り出した。
その水は、シドニーオリンピックにおけるマラソン金メダリストの高橋尚子選手が愛飲したことで、話題になった。その後、高賀神社の手前に井戸を掘り、百円の初穂料を取ることで水を汲ませた。
「神水庵」と名付けられたその場所には、毎年二十万人が訪れるという。その場所は泉があった場所から数百メートル離れたところだった。

船戸氏が村全体の利益を考えていたことは間違いない。しかし、なにかが山の怒りにふれたのか、その後、車を運転中に山道のカーブでハンドルを切りそこない他界してしまった。
洞戸村は市町村合併によって、関市に組み込まれた。 村がなくなることによって武藤村長も引退を余儀なくされ、高賀修験復興の機運も萎んでいった。
そんな折に、私に大阪の寺で住職にならないかという話が持ち込まれ、受けることにした。

2009年6月29日月曜日

18. 宿命 1

千日回峰行を終えた私は、引き続き「六社巡り」をする。
これには洞戸村の武藤村長も協力してくれて、村をあげて高賀修験復興の機運が高まった。また天台宗の行者が岩場から琵琶湖に飛び込む荒行にならって、私は「入水往生(じゅすいおうじょう)」という行を始めた。これは、三千淵で亡くなった三千人の僧侶の慰霊と、また水の事故で亡くなった方々の供養の意味を込めて、橋の上から投身をした。これは毎年、夏に行い、今も続けている。

これらのことをおこなったが、私が望んだ蓮華峯寺の復興はならなかった。
その大きな理由は私の支援者であった船戸行雄氏が亡くなってしまったことによる。船戸氏は蓮華峯寺再建のための青写真を描いていた。しかし、私の望んだ泉の湧く場所ではなく、自分の所有する土地でのことだった。私が閼伽水(あかすい)を汲んだ泉は、船戸氏が作った林道の土砂によって埋もれてしまった。船戸氏が作った林道は山を切り裂いて、動物たちの棲む場所を奪った。山にいた猪やサルたちは、しばしば里にあらわれ作物を荒らした。

2009年6月28日日曜日

17.四十九日の岩屋籠り 2

昼頃になると読経をした。毎日唱えたお経は、般若心経を二十一巻、大悲呪を三巻、観音経を一巻、阿弥陀経を一巻である。それから光明真言を百八回唱え、次に不動呪を百八回を十回繰り返した。 そのあとはひたすら座禅に打ち込んだ。夜になると北斗護摩を焚いた。

昼食はとらなかった。夕食はうどん、そば、冷麦、インスタントラーメンなどの麺類に、茶碗一杯のご飯だった。米が炊けるように飯盒(はんごう)も用意していた。野菜は叔母が作ってくれた煮つけがあった。岩屋のそばに小さなテントを張って荷物の置き場とした。

沢の近くにスコップを持っていき、穴を掘って用便をした。紙は使わずに泥団子をこね、それで尻を拭った。そのやり方は『正法眼蔵随門記』に書かれていたものに則っていた。

季節は五月の新緑の頃となった。
山に登山者が訪れるようになり、岩屋のなかに私の姿を見つけると静かに手を合わせて通りすぎた。時にお賽銭が置かれていることもあった。道元の教える只管打座(しかんだざ)とは、座っているその姿が仏であるというものである。身体は仏であった。 私は仏に仕える行者は身綺麗にするべきと思っていた。禊は、朝、昼、晩の三回行った。毎日、ふんどしと肌襦袢を変えた。

七日ごとに山を降りて、洗濯物を持ち帰った。洗濯は叔母がしてくれていた。叔母は野菜の煮つけをタッパーに入れて用意してくれていた。私は一週間分の食料を持って、ふたたび山に戻った。七日ごとを七回くり返した。 
最後の七日は断食だった。その時は護摩も焚かず、ひたすら座り、眠るときも座ったままだった。山籠りを続けているうちに感覚が鋭敏になり、風が運ぶ匂いや音がわかるようになってきた。朝、家々で用意する朝餉(あさげ)の匂いを嗅ぎ、里で子供たちが学校に向かう声が聞こえた。
そのようにして私は修行を終えた。