2009年6月13日土曜日

13 深夜の儀式 2

禊を終えると、蓮華峯寺観音堂の階段を昇る。まず、荒神の祠に行き、閼伽水と榊を供え、三礼をし、法螺貝を吹く。それから二体ある地蔵に閼伽水と(しきみ)の花を供えて、それぞれに蝋燭二本と線香三本を立てる。三礼し、地蔵菩薩真言を二十一回唱えた。それから拍手を三回打ち、二礼二拍一礼をして、三礼、法螺貝を吹く。これを月二回、一日と十五日におこなった。
樒(しきみ)はときに高野槙になることもあった。
樒や高野槙は山に自生していた、ときどき隣山の蕪山に採りにいった。 観音堂に入り、結跏趺坐をして法螺の儀を唱える。それから山伏問答を読み上げ、法螺貝を吹き、三礼をした。護身法を切り、すり念珠をして、錫杖を振りながら、懺悔文、開経偈を唱え、三帰、三竟を三遍、十善戒、消災呪(しょうさいしゅう)を三遍、神仏をたたえる回向文を唱え、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、先祖の霊をたたえる回向文を唱えた。それから大日如来真言を七回、不動真言を七回、大師法号を七回唱える。観音行を一巻、光明真言を七回、舎利礼文を一巻、本覚讃を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍、総回向を唱え、すり念珠、三礼、法螺貝を吹き、観音堂をあとにする。

2009年6月12日金曜日

13. 深夜の儀式 1

泉で閼伽水を汲んで、高賀渓谷にむかうのが午前一時を過ぎた頃だ。
渓谷にかかる橋には、深夜にもかかわらず、私を見ようと集まった見物客が何人もいた。
岩場で着ていた作務衣を脱ぎ、ふんどし一枚の姿になる。 法螺貝を吹き、川に向かって三礼をする。護身法を切り、すり念珠をしてから、龍神大菩薩の真言を七回、八大龍王の真言を七回、不動呪を七回、光明真言を七回、唱える。それから水に浸かる。夏の禊は行水のように心地よい。

川原でキャンプをしている若者たちが私に気づき、近寄ってくる。
彼らはふざけて奇声をあげながら川に飛び込むと、私のそばで私が結ぶ印をまねた。
私は早口で般若心経を三遍唱え、川を出る。
それから、川に入るときとおなじように、龍神大菩薩の真言を七回、八大龍王の真言を七回、不動呪を七回、光明真言を七回、唱えた。
ふたたび三礼をし、法螺貝を吹く。
それから持ってきた修験装束に着替えると、午前二時ごろになる。

2009年6月11日木曜日

12. 小さな見性 3

叔母が、洗濯した私の修験装束を竿に干しているときに、パンパンと音をたてて叩き、両手で挟んだ布のしわを伸ばしていた。
毎日の洗濯はたいへんで、たいていの場合は叔母がやってくれていた。
ありがたいことと感謝はしていたが、どこかでそれを当たり前のことと思っていた。

叔母が用事で家を空けなくてはならないときには、私は自分で装束の洗濯をした。
洗濯機は古く、脱水機の代わりにローラー式絞り機がとりつけられたいた。
ゴム製のローラーの間に服を挟みこみ、取っ手をまわして水を絞る。
このとき絞りすぎると麻衣にしわができたので、力の加減が必要であった。
少し水が滴るぐらいに濡れた洗濯物を物干し竿に通し、手で叩いてしわを伸ばすと、乾いた時にアイロンをかける必要がないほどにピンとする。このことを叔母におそわった。

あるとき、私は手でパンパンと音をたてながら洗濯物のしわを伸ばしていた。
そのときに自分が無心でいることに気がついた。
見性を得るとは、禅宗において自分の心性を見極めることをいう。
邪念をいだき、日々の雑事に煩わされていることを嘆いていた気持ちが消え、日々の生活のなかに修行があることを悟ったのだ。

それから私は叔母に任せずに毎日自分で洗濯をした。

2009年6月10日水曜日

12 小さな見性 2

しかし、見られたいることは励みになった。
禊で唱える真言にも自然に力がこもった。

土曜日、日曜日ごとに見物客は増えた。不動の岩屋に行くと、先回りをして待っている者たちも現れた。私は無言のまま、何人もの同行者を引き連れ山に登ることもあった。写真を撮られることは日常茶飯となった。当時の私はちょっとしたスターであった。

注目されることは嬉しいことだった。しかし、比叡山で修行をしていたならば、もっと大きく報道されただろうし、身の回りの世話をしてくれる人が常にいて、修行だけに専念できる。山に登るにしてもお付きの人達と一緒だ。彼らは冬に休みながら千日を七年かけて行えばいいが、私は千日を冬場も休まず三年でおこなわなければならない。
そして、満行の暁には比叡山で回峰行をする行者のように名誉栄達が約束されているわけではない。そんな気持ちが芽生えたときに、私は小さな見性を得た。

2009年6月9日火曜日

12 小さな見性 1

高賀山は、閉ざされた山というわけではなかったので、登山者と行き交うこともあった。

修行を始めて二年目の夏に行き交う登山者の数が急に増え始めた。登山者たちが私を見て、「新聞にでていた行者さんだ」と囁く声が耳に入ってくる。後に知ったことだが、趣味で山の植物の写真を取りに来ていた中日新聞の記者が、修行中の私の姿をたまたま見かけカメラに収めたそうだ。それが記事になって掲載されたことを、記者本人が何年か経ってから連絡をしてきた。

記事がでてしばらくしてのことだと思う。私が高賀渓谷で禊をしている最中に、渓谷を見下ろす橋の上に、テレビ局の車が留まっていることに気がついた。その時は自分のことを撮影しに来ているのだとは思わなかったが、村人に、地元テレビ局のニュース番組に出ていたことを知らされた。

それからその橋には見物客が溢れ出した。多いときには三十人ほど集まった見物客は、それぞれに私に声をかけてきた。修行の最中は無言であることが基本なので、声をかけられてもそれに答えることはしない。取材のためにマイクを向けられたこともあったが、私は軽い会釈をしただけで、通り過ぎた。

2009年6月8日月曜日

11 不動の岩屋 2

月の輪熊に出会ったこともある。それは十一月のことで、熊は冬眠の前だった。
やはり峠に向かう勾配を登っているときに、熊が草叢の中に腰掛け、自分の手を嘗めている場面に出くわした。それまでになんどか見かけたことのある熊だった。懸命に手を嘗めているしぐさがなんとも愛らしく、私は足を止めてしばらくその姿を眺めていた。すると熊がこちらに気がつき、目が合った。
「しまったっ」とおもった。

私はすぐさま危険を感じ、下に向かって駆け下りた。熊はうなり声あげて向かってきた。私は木の枝につかまりながら、岩と岩の間を飛び跳ねていった。人はこんなこともできるのだなと我ながら感心するほどに、私はすばやく駆け下り、崖に回りこんで不動の岩屋に登った。熊は岩屋の下の道を止まらずにまっすぐに駆け抜けていった。

後に大峰山奥駆(おおみねさんおくがけ)で修行をしたときに、大日岳から前鬼坊の太古の辻までをどれだけの時間で駆け下りることができるか、競争したことがある。普通の登山者は一時間から一時間半かかるといわれる距離を、修験者は山駆けして四十分ほどで下りる。私は木の枝をつたい跳躍をくり返し、二十分で駆け下りた。修験者が天狗に例えられるのも、故のあることだと思った。

2009年6月7日日曜日

11. 不動の岩屋 1

目覚めるといつも力が漲っていた。すぐにでも山にいだかれたいという思いにとらわれる。月の出る夜は、昼間のように明るく岩々の肌理(きり)を黄色く照らす。
黒々と茂った草々は朝露に濡れ、その匂いが鼻腔を突いた。私の息は次第に荒くなり、汗ばんだ頬を風がやさしく撫でた。水気を含んだ空気が喉の奥の毛氈(もうせん)に触れ、渇きを癒す。

不動の岩屋に籠もり読経をする時間は、休息の時でもある。私は暗い窟のなかで心地よい疲れを感じながら安心していた。岩屋は昔から、修験者の修行場であり、旅人の休息の場であった。雨の日はこの岩屋で炭を起して暖をとることもあった。
雷や嵐の時には、ここに逃げ込めば安心だった。私は霊山とよばれる山をいくつも登ったが、不思議なことに、どの山にも五合目から上のあたりにこの岩屋に似た自然の巌窟があった。

私は何度かこの岩屋に救われたことがある。秋口のことだった。
この岩場を過ぎて御坂峠に向かう急勾配を歩いていると、猪が懸命になにかを食べている場面に出くわした。私が近づいたことで猪が振り向き、目と目が合った。
野性の動物は目が合うと相手を脅かす習性がある。猪は耳を立てて私を威嚇するしぐさをみせた。私がそ知らぬ顔をして通り過ぎると、猪は少し離れた藪の中を私に平行して歩いている。私は猪のほうを見ないように気をつけたが、猪がこちらを睨みながらついてくる気配を感じた。

私はゆっくりと後ずさりをした。低いうなり声を発し、猪は私をめがけて突進してきた。私は体をひるがえして急勾配を一目散に駆け下りた。後ろから私に向かって迫ってくる音が、ドッ、ドッ、ドッ、と聞こえた。 私は不動の岩屋の近くまで駆け下り、木から垂れ下がっていた蔦につかまると、ターザンさながらに飛び上がって、岩屋の上に飛び降りた。猪は岩屋の下をまっすぐ走り抜けていった。