2009年5月22日金曜日

5.千日回峰行 2

山の中腹に不動の岩屋と呼ばれる場所があった。
不動の岩屋は大きな二枚の岩が重なってできていて、上の岩の下にも、下の岩の下にも大きな空洞があり、人が何人か入ることができる広さがあった。
その岩屋を通り過ぎると、石が階段状に連なる急勾配が続く。

吐息が白くなった。四月の高賀山にはまだ雪が残っていて、木々はまだ新芽を出す前だった。
里ではようやく梅の花が咲こうとしている時期のことである。

御坂峠を越えると尾根道が続く。まだ未明に山頂に着き、明けの明星を眺め、そこで再び読経を行う。しばらくすると、遠く木曾御嶽山の方角が白々と明けてくる。
やがてご来光を仰ぐと、私は肩から掛けた法螺貝を取って吹いた。
太陽はやがて山の麓を照らし、私は山頂から自分の育った場所を見下ろした。

私は自分がここにたどり着くまでの因縁に思いを馳せた。
因縁とは因果の理(ことわり)のことだ。この世の全ての事柄は原因と結果によって成されている。
ヒンドゥ教(初期バラモン教)などでは前世の業により現世が形成されると教義しているが、仏教の宗祖である釈迦は更に縁起を説いた。
縁起は縁ともいい、全ての出来事は縁がある。仏教ではそれを因果律といっている。
人は前世からの因縁によって現世の生を受ける。祖先に僧侶がいたが、私の父と母は無信心だった。私は宗教とは無縁の環境で育ち、奇妙な縁で仏門に入った。

2009年5月21日木曜日

5.千日回峰行 1

千日を行う前に、百日の前行、四十九日の加行を修し、武藤宮司から初めて入峰を許された。
回峰行は四月一日から始めた。
毎朝午前一時半に起床し、洗面を済ませると、そば粉と荒塩を混ぜて捏ねた団子と、こうせん粉に少しの砂糖を混ぜた団子を作り、袋に入れて出発する。
山は漆黒の闇に包まれていた。山に入るためには禊は不可欠である。

私は着ていた作務衣を脱いで岩場の上に置き、川の中へ入った。
四月の高賀渓谷には山頂からの雪解け水が流れ込んでいる。水の冷たさが身体を打つ。
私は一心に真言を誦(じゅ)した。
水からあがると私は先ほど脱いだ作務衣をリュックサックにしまい、持ってきた荷物の中から鈴懸(すずかけ)を取り出した。
それから掛衣(かけごろも)を首から掛け、貝ノ緒(かいのお)を巻き、尻には引敷(ひつしき)を当てる。白足袋を足に着け、手甲脚袢(てっこうきゃはん)を手足に付け、頭巾(ときん)を額にあてた。
錫杖(しゃくじょう)を手に持ち、法螺貝(ほらがい)をくびからつるし、短刀を腰に納めた。
山伏の修験装束である。禊を終え、蓮華峯寺観音堂で読経を終えると午前二時を回る。
高賀神社で祝詞をあげ終わるのが午前三時半である。

高賀神社の前の林道をしばらく行くと登山口が現れる。登山道は厳しい岩場である。
私は暗闇の中を一歩一歩、足で岩をとらえて登り始めた。

2009年5月20日水曜日

4. 木作 2

木作という地名は、ここが木地師(きじし)の里であったことを表している。
木地師とは、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤(ろくろ)をまわして椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人達のことだ。
朝廷の由来書を持ち歩き、山々を自由に渡り歩くことが出来た。
木作の近くには小倉という地名があった。
これも木地師に多い名で、この地域一帯が木地師の里であったことを物語っている。
木地師の祖は惟喬親王(これたかしんのう)といわれる。
惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したというのが伝説だ。
発祥は滋賀といわれるが、一説にはこの木地師が忍者の祖ともいわれる。
峯々をつたって各地を巡る木地師は広範な情報網を持っていた。 
その一部が戦国大名と結びつき隠密行動をするようになったと考えることは、不自然なことではない。山伏もまた峯々を歩いた。木地師は忍者と山伏の先祖で、両者は同じものだった。
史書を紐解いてみると、この高賀の里の民が甲賀の忍者のルーツであると考えられる証拠がある。
修験道が盛んなこの土地の僧侶を信長が殺さなければならなかった理由も、彼らの諜報活動にあった。
彼らを殺すことで信長は自分にとって不都合な事柄を歴史の闇に葬り去ったのだ。
そんな歴史の因縁を知るにつけ、私は自分に課せられた使命を感じずにはいられなかった。

2009年5月19日火曜日

4. 木作 1

初めて高賀の地を訪れてから数年がたった。
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。

当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。 
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。 
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。

千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?

2009年5月17日日曜日

3.神仏習合

神社仏教の修行の場となるのは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)という日本独特の信仰形態があったからだ。
渡来の宗教である仏教は古来の神道融合し、神と仏は同等のものに考えられるようになった。
奈良時代から神社には神宮寺といわれる寺が建立された。
高賀山にも養老7年に蓮華峯寺(れんげぶじ)という神宮寺が創建されている。

修験道とよばれる山岳信仰もまた神仏習合思想によるものだ。
山を神とする古来の信仰に、神道、仏教、道教などの思想が組み合わさったこの独特の宗教は、奈良時代に確立した。
白山信仰が有名だが、高賀山も高賀権現(ごんげん)として奈良時代から信仰されてきた。
権現とは神の仮の姿をいう名前だ。 
修験道の実践者を修験者(しゅげんじゃ)といい山伏(やまぶし)ともいった。
彼らは山に籠もって修行をすることにより、様々な「験」(しるし)を得ることを目的とした。 

慈海大禅師は高賀山で千日回峰行を三度満行(まんぎょう)したとつたえられている。
千日回峰行とは、千日の間休むことなく山の峰を歩くとそうぎょうである。
相応大師が比叡山で始めた回峰行が現在まで伝わり有名なので、千日回峰行というと比叡山の専売特許のように思われがちであるが、全国にはこのような山岳霊域が五十以上あると言われている。
いつしか私は、先祖である慈海大禅師が高賀山で行った千日回峰行を復興したいという思いに囚われた。