2009年7月25日土曜日

8. 茶道

剣道とともに私がこの短大時代に熱中したことに、茶道がある。
茶道は大学の必修科目であった。そもそも茶は、臨済宗の開祖である栄西が中国から日本にもたらしたもので、茶道は臨済禅と密接なかかわりがあった。
授業で道前宗雪尼という年配の尼僧の方が茶道を教えたが、私は日曜日にもその尼僧寺に通って習うほどの熱の入れようだった。私は茶道部の部長も務めた。
正眼寺では毎年正月に正眼茶会を主宰していたのだが、これは岐阜県下でも一番大きな茶会であり、正眼寺の名物行事であった。
この茶会の実務を取り仕切るのが正眼短期大学の茶道部であったので、その責任は大きかった。この茶道部は、この地方にある他の大学の茶道部にも有名だった。
他の大学の文化祭で茶会に招かれた際に、衣を着て現れ、黙々と茶を立て、凛として立ち去る姿は、他大学のお遊びのようなサークルとは一線を画していて、一目置かれていた。私以外の学生たちもみな茶道に真剣に取り組んだ。

2009年7月22日水曜日

7.大森曹玄老師 4

この日、その場所にいたのは二、三時間ほどであったろうか。高歩院の門を出たとき太陽は西に傾いていて、私たちの影を道に長く伸ばしていた。 
門から出て百メートルほどの路地を老師とお弟子さんたちは私たちと共に一緒に歩いて、そして線路沿いの駅に向かう道にぶつかる角で、お辞儀をして私たちを見送った。私は高名な先生に会えた喜びに、駅への道のりを浮かれた気分で歩いた。
しばらく歩いて、ふと後ろを振り向くと老師とお弟子さんたちはまだ頭をさげ、合掌して私たちを見送っていた。
そして三百メートルほど歩いて、まっすぐな道が途切れて次の角を曲がるときに再び後ろを向くと、老師はまだそこで私たちを見送っていた。
その遠くに小さくなって見えた大森曹玄老師の姿を私はいつまでも忘れることはない。

2009年7月21日火曜日

7.大森曹玄老師 3

私たちは禅堂に案内され、そこで老師に「法定(ほうじょう)」の形を見せていただいた。この形は直心影流剣術の基本で、八相発破、一刀両断、長短一味の四本があり、それぞれが、春、夏、秋、冬の大自然の運行を表している。
小柄な老師が太く独特の形をした木刀を持って見せてくれた演武形は無駄な動きひとつなく、およそ二十分のあいだ私は老師の動きを食い入るように見つめていた。
演武を終えた老師は、私に「丹田を鍛えなさい」と言った。

次に直径十センチほどの大きな筆を取り、広げた新聞紙に書をしたためて見せてくれた。それから私たちにも筆を取らせ「書いてみなさい」と言った。
その時なんという文字を書いたかは覚えていないが、老師に「あんまり上手くないねぇ」と笑われたことを覚えている。

私は最後に老師に「剣を学ばせてください」とお願いした。
それから長年に渡って、折を見ては中野の高歩院に通って剣を学ぶことになる。
それはこの初めての出会いから、老師が九十歳で遷化(せんげ)するまでの十数年に及んだ。私の荒れた邪剣を正してくださったのは大森曹玄老師だ。大森老師からは謙虚であることの大切さも学んだ。

2009年7月20日月曜日

7.大森曹玄老師 2

それは夏休みのことだった。師匠寺の住職である宗覚師の親族の法要が東京であり、小僧である私も手伝いで連れて行かれることになった。
その際に僧侶でもあった成瀬教授が、宗覚師の脇導師として同行した。これを機会に東京にいる大森老師をお訪ねしようと成瀬教授が先方に手紙を書いておいてくれた。私の初めての上京である。

法要の手伝いを終えた私は、成瀬教授と兄弟子に伴われて中野の高歩院を訪れた。午後二時の約束だったと記憶している。まず奥方の書院に通された。
老師は外出中で、そこで私たちは二十分ほど待たされた。そして老師が現れたとき、約束の時間に遅れたことを老師が私たちに丁寧に詫びたことが印象的だった。
私たちのような若造に対して、まるで偉ぶるところのない人柄に、感銘を受けたのだ。 

書院では老師と成瀬教授が禅の話などをしているのを、私は脇で静かに聞いていた。話が一段落したところで老師は私の方を向き、私が持っていた防具入を見て「剣道の稽古をされてきたのですか」と尋ねられた。そのときその防具入に入っていたのは法要のための仏具だったので、私はそう答えた。