2009年8月15日土曜日

出会い 1

托鉢の旅は五月から始めた。最初、近隣の岐阜市内から始めて名古屋、四日市、三重に入り伊勢神宮にお参りした。
六月から七月には中津川から中山道に入り、妻籠、馬籠を歩いた。
島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で「木曽路はいつも山の中」と旅情を歌った道だ。
長野に入り、飯田、松本を経て、諏訪大社に参詣し、それから善光寺を詣でた。野沢温泉では湯に浸かった。ここから飯山に抜ける道は白樺並木でとても風情があり、好きだった。白隠禅師の師匠である正受老人が作ったとされる正受庵には、一週間の投宿をした。
それから新潟の妙光山に登り、電車で群馬に移動し赤城山に登った。栃木では日光東照宮に参詣し、埼玉を経て東京に来た。
それから、一度自宅に戻り、しばらく体を休めてから、八月、大阪に行った。そこから堺に行き、富田林を通り橋本に行った。
その後高野山に登り、そこで四国八十八か所を廻る祈願をする。九月から十月にかけて、この八十八か所を廻り、再び結願寺である高野山に登って終わる。
十一月中ごろには九州に渡り、太宰府天満宮にいった。十一月から西国三十三か所を巡る旅を始めた。

2009年8月14日金曜日

托鉢 5

読経を終えて振り向くと、老夫婦は仏壇に手を合わせながら泣いていた。
聞くと、今までこれほどきちんと坊さんに供養をしてもらったことがないという。
「おはぎがあるので食べていってください」と言われ、御馳走になりながら話を聞くと、夫婦には三人の息子がいたが、一番上の息子は特攻隊で死に、二番目の息子は結核で死に、三番目の息子は海軍で戦死したという。
小一時間ほど話をして、お昼時になったので、寿司でも取ろうという誘いを固辞し、立ち去ろうとした別れ際、老婆は前掛けのポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出し、私に背を向け手で懸命にしわを伸ばしてから、私に手渡そうとした。
それは一万円札であった。夫婦の暮らし向きが苦しいだろうということは、家の中の様子から見て取れた。その一万円は貴重な年金であろう。私は受け取ることを躊躇した。
すると老婆は私の手を取り、その一万円札をぎゅっと握らせた。托鉢行では喜捨を受け取ることは相手に功徳を積ませることでもあり、拒否はできない。
私の目からは涙があふれた。私はその一万円を頭陀袋(ずだぶくろ)にではなく、懐に入れた。
その一万円を私は一日中持っていたが、結局、自分の為に使うことができなかった。
翌日、私は孤児院を訪れてそのお金を寄付した。

2009年8月13日木曜日

托鉢 4

ある夏の日、大阪の河内を訪れたときのことだ。
午前十時ごろ、強い日差しの中、古い長屋が並ぶ往来で「ほおーっ、ほおーっ」と声を上げていると、ある一軒の玄関から腰の曲がった老婆が出てきて、「お坊さん、よう来ておくんなさった」と声をかけてきた。
「お茶でも飲んでいったれや」と老婆が言い、「いねぇ、いねぇ(入れ、入れ)と」と私を急かした。
私が躊躇していると、「はいったらんかい!」とドスを聞かせた声を出した。
初めて聞く河内弁の迫力にけおされて、私は遠慮がちに家に入った。ガラスの引き戸をガラガラと開けると狭い土間があり、すぐに六畳ほどの座敷があった。
中には年老いた旦那もいた。座敷に上がれと勧められたが、足が汚れていることを理由に遠慮し、上がり框(かまち)に腰を下ろした。座敷の正面には仏壇があった。出されたお茶を飲んでいると、仏壇の中にあった三枚の写真が目に入ってきた。
一枚には飛行隊の制服を着た人物が写っていて、ほかに着物を着た人物、海軍の制服を着た人物がいた。
「息子さんたちですか?」と尋ねると、老婆は黙って頷いた。
私は供養させてくださいといって、汲んでもらった水で足を洗い、座敷に正座し仏壇の前で十五分ほど読経をした。

2009年8月12日水曜日

托鉢 3

岐阜近隣から始めた托鉢の行脚は、徐々に遠くに足を延ばすようになった。
歩いて気づかされたのは、金持ちの住む場所ではお布施を受け取ることができず、むしろ貧乏な人たちが住む場所でこそ、お布施を受け取ることが多いことだ。
路地を歩いていると、子どもがやってきて、私に十円玉を握らせたことがあった。
その土地に喜捨をする風習が根付いているということであろう。
心の豊かさはお金の尺度では計れないことを、托鉢行を通して学ぶことができた。
二千円から三千円のお布施が集まると、その日の食費とし、余った分は、その日に投宿した寺の賽銭箱に入れ、翌日また無一文から托鉢を続けた。

2009年8月11日火曜日

托鉢 2

托鉢行とは乞食行(こつじきぎょう)ともいい、家々を巡って生活に必要な最低限のお布施をもらい、人々に功徳を積ませる修業のことをいう。慈悲の心がなければ乞食(こじき)とかわらず、実のところ、僧を装った乞食も珍しくない。私は臨済宗で得度をした僧として袈裟を着ていたが、野宿をすることも多く袈裟は汚れていた。そんな旅の中で、人々の人情に触れることも多くあった。

特に人情の厚い場所として記憶しているところに、下呂温泉がある。
定食屋の店先に立つと中に招き入れてくれ食事を振舞ってくれた。
ある大きな旅館の女将が、無料で一番良い部屋に泊めてくれたこともあった。
下呂には水明館という老舗の旅館があり、ここの主が先祖代々正眼寺の檀家で、私も雲水時代に仲間と一緒に托鉢したときに何度も投宿させてもらった。
そのように信仰の厚い土地柄であるのだろう。
また温泉街にはそれぞれに事情を抱えて流れてきた人たちが多く働いていて、余所者(よそもの)に寛容な風土があったため、下呂温泉には何度か訪れた。中山道の旅情も素晴らしかった。
旅を続けるうちに人情に溢れる場所は日本中いたるところにあることに気づかされた。

2009年8月10日月曜日

托鉢 1

網代笠を被り、黒染めの麻衣を着て、肩から頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手甲で覆った手に錫杖を持ち、脚半を付けた足には梱包用のビニール紐で編んだ草履を履いていた。
「ほおーっ、ほおーっ、ほおーっ」
大きな屋敷の玄関前で読経をしていると、屋敷の中からギャンギャンとドーベルマンの吠える声が聞こえてきた。
しばらくすると中から屋敷の主人が出てきて、私の顔を見るなり、
「なんだ、きったねぇ坊主が立っておって。帰れ、帰れ。」と言った。
途中で読経を止めるわけにもいかず早く終えて立ち去ろうと思っていたところで、私は水をぶっかけられた。
私は濡れた袈裟から水を滴らせながら、その屋敷から離れた。
観光地で土産物屋の店先に立っていると、店主に、「商売の邪魔だから他所に行ってくれんか」と追い払われることもたびたびだった。