2009年6月7日日曜日

11. 不動の岩屋 1

目覚めるといつも力が漲っていた。すぐにでも山にいだかれたいという思いにとらわれる。月の出る夜は、昼間のように明るく岩々の肌理(きり)を黄色く照らす。
黒々と茂った草々は朝露に濡れ、その匂いが鼻腔を突いた。私の息は次第に荒くなり、汗ばんだ頬を風がやさしく撫でた。水気を含んだ空気が喉の奥の毛氈(もうせん)に触れ、渇きを癒す。

不動の岩屋に籠もり読経をする時間は、休息の時でもある。私は暗い窟のなかで心地よい疲れを感じながら安心していた。岩屋は昔から、修験者の修行場であり、旅人の休息の場であった。雨の日はこの岩屋で炭を起して暖をとることもあった。
雷や嵐の時には、ここに逃げ込めば安心だった。私は霊山とよばれる山をいくつも登ったが、不思議なことに、どの山にも五合目から上のあたりにこの岩屋に似た自然の巌窟があった。

私は何度かこの岩屋に救われたことがある。秋口のことだった。
この岩場を過ぎて御坂峠に向かう急勾配を歩いていると、猪が懸命になにかを食べている場面に出くわした。私が近づいたことで猪が振り向き、目と目が合った。
野性の動物は目が合うと相手を脅かす習性がある。猪は耳を立てて私を威嚇するしぐさをみせた。私がそ知らぬ顔をして通り過ぎると、猪は少し離れた藪の中を私に平行して歩いている。私は猪のほうを見ないように気をつけたが、猪がこちらを睨みながらついてくる気配を感じた。

私はゆっくりと後ずさりをした。低いうなり声を発し、猪は私をめがけて突進してきた。私は体をひるがえして急勾配を一目散に駆け下りた。後ろから私に向かって迫ってくる音が、ドッ、ドッ、ドッ、と聞こえた。 私は不動の岩屋の近くまで駆け下り、木から垂れ下がっていた蔦につかまると、ターザンさながらに飛び上がって、岩屋の上に飛び降りた。猪は岩屋の下をまっすぐ走り抜けていった。

0 件のコメント:

コメントを投稿