2009年8月5日水曜日

12 流転 2

学校を辞めて、まず私が始めたのは土方(どかた)である。解散した父の組の組員だった男が土建屋をやっていて、そこで肉体労働を三ヶ月やった。
次にもっと時給の高い解体業に移った。それも父の組のつながりであった。そのとき、大型免許を持っていなかったにもかかわらず、私は十一トントラックを運転した。その仕事は四ヶ月続いた。
次に本の訪問販売セールスの職についたが、これは自分に合わず一ヶ月で辞めた。次に私は商事会社のサラリーマンになった。時代はバブル経済に向かう途上であり、証券はとても儲かった。父の借金は三千万円ほどで、主にサラ金からのものだったが、私はサラリーマンをしながら順番に返していった。借り先のサラ金は二十数社に及んだ。その借金を数年で返し終えた。私のセールスの成績は優秀だった。小豆相場で大儲けしたこともあった。

ある日、営業で訪れたある会社で、私の顧客であった社長が自分の会社で開発した機械を見せてくれた。それは電線を覆う皮膜を自動で切断する機械だった。それまでにも同じような機械はあったのだが、大型で高価だった。その会社はゲーム機器などの製作をしていたのだが、その基盤はたくさんの配線が必要で、作業の合理化のために独自に小型の機械を独自に作った。それを見せられた私が「これは他社にも売れますよ」と言うと、私の顧客であるその社長は自分もそう思うと言い、ただ自分のところには販売網がないから、私に作って欲しいと請われた。私は販売会社を作って、そこの専務に納まった。商品はアメリカのNASAに納入されるほどにヒットし、会社は業績を順調に伸ばした。

2009年8月4日火曜日

12 流転 1

教師の仕事にはやりがいを感じていた。ちょうどテレビドラマで「金八先生」が流行っていたころで、私も熱血教師をめざした。
しかし、現実はドラマのようにはいかなかった。正眼短期大学のような厳しい教育は、大人になりかかった十九、二十歳には適していたが、まだ幼い高校生には無理があった。生徒数の多いマンモス高校では、様々な問題が相次ぎ、生徒と学校の間に立った私はいつも苦しい立場に立たされた。結局、私の教師生活は一年しか続かなかった。原因の一つに父が再び逮捕されたことがある。父が刑務所に入ると、父の作った借金が保証人である母の元へかぶってきた。私は母を援助していたが、その金額はとても教師の給料で追いつくものではなかった。私は勤めていた会社に相談をした。すると理事長の息子である副理事長が、「武藤先生のお父様はその筋の方でしたか。それではうちの学校にふさわしくありませんね」といった。
その一言で私は学校を辞めた。

2009年8月3日月曜日

11. 結婚 2

ある日、用があって正眼寺に電話をしたとき、谷耕月師が病気で入院したという知らせを聞いた。私は彼女を連れてお見舞いに行った。すると私たちは谷耕月師が入院されてから訪れた最初の見舞客だった。
耕月師は私たちが来たことを非常に喜んでくれた。そして彼女をフィアンセであると紹介すると、喜んで仲人になることを引き受けてくれた。そのことを師匠である宗覚師に報告をしにいくと、口では祝ってくれたが、なんとも寂しい表情をされたのが忘れられない。真福禅寺とは、そのまま疎遠になってしまった。
その後、谷耕月師は、子どもが生まれたときに名付け親になるなど、なにかと私たち夫婦をかわいがってくれた。そんな経緯があったのだが、結局、耕月師は結婚式に出席していない。理由は、私の父にあった。母と一緒に挨拶にいったのだが、ヤクザ者の父は相手が誰であろうと関係なくぞんざいな口を利いた。耕月師はその時まで私の父がヤクザの組長であることを知らなかった。妙心寺派の高僧である谷耕月師が、ヤクザと同席することはやはり難しかった。

2009年8月2日日曜日

11. 結婚 1

谷耕月師は、その後も正眼寺に来ることを勧めてくれたが、そのことを宗覚師は快く思わなかった。子供がいなかった宗覚師は、私に自分の寺を継がせようという思いもあったようだ。 
私は大学を四年生の秋に中退してしまった。その後の自分の進むべき道を探しあぐねていたときに、谷耕月師の薦めがあって、ある全寮制私立高校の教師兼寮監として赴くことになった。それは生前の逸外老師が私のために用意してくれた道でもあった。逸外老師は遷化される前に私に「住職にならずに、僧侶になりなさい」と言い残していた。
私自身も修業はつづけたいと思っていたものの、どこかの寺に収まってしまうことには魅力を感じていなかった。正眼寺大学で人生を変えられるほどの体験をしたと思っていた私にとって、正眼寺大学と同じように人間を作るという理想を掲げた全寮制の高校で教鞭を取ることは打って付けに思えた。
高校で教師を始めてからすぐに私は今の家内との結婚を決めた。結婚することを宗覚師に申し出たときに、師匠はへそをまげてしまって結婚式にはでないと言い出した。私は困ってしまった。

2009年7月31日金曜日

10. 公案 3

私は逸外老師に接見するために何度か妙心寺を訪れた。逸外老師は管理職で忙しかったにもかかわらず、いつも接見してくださった。
公案の答えを述べると、毎回、無言で一蹴された。
あるとき、この問いの答えは「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の本来の面目」を考えてみないとわからないと言われた。
これは「自分の両親が生まれる前は何であったか」という問いである。老師は、私が自分の生い立ちに苦しんでいることを見抜いておられたのだ。
私は、逸外老師の弟子としてこれからも生きていきたいという希望を持っていた。
しかし老師は、私に外の世界に出ていくことを勧められた。
「修行の場は娑婆(しゃば)の世界だぞ」
と老師は言われた。
「ここにいる雲水たちは寺の息子たちだ。彼らは良くも悪くも二、三年ここで修業すれば跡取りとして住職となる。しかしお前はもともと坊主の息子ではないのだ」
そう言われ、私は落胆した。
老師はさらに
「いつでも、ここにいらっしゃい。そのときは一服のお茶でも飲もうぞ」
とおっしゃった。
私は、つい初関の公案を通していただくことはなかった。しばらくして逸外老師は病に倒れ遷化(せんげ)されたからだ。

2009年7月30日木曜日

10. 公案 2

私は
「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)です」と答えた。
これは、両手をバンと鳴らしたときに右手と左手のどちらが鳴ったか、を問うもので、初関(初めて授けられる公案)として、よく使われるものだ。
逸外老師は、
「私も公案を授けよう」と言い、
「趙州(じょうしゅう)和尚。因(ちなみ)に問う。狗子(くし)に還って仏性ありやまた無しや」
と問われた。
これは「趙州の無学」といわれる公案で、趙州和尚に弟子が
「犬にも仏性があるでしょうか」と訊き、
和尚が「無」と答えたという話である。
私は逸外老師に頂いた公案を持って翌日から参禅し、師匠の宗覚師に、
「犬には仏性はありません」
と答えると、宗覚師は、ガハハッ、と笑われた。
また翌日参禅し、今度は
「犬に仏性はあります」
と答えると、宗覚師は大声で笑われるばかりだった。
ひと月後に逸外老師がお見えになった。私は自分の答えを逸外老師にぶつけた。
老師は、むっと口を閉じたまま、何もお答えにならずにそのままどこかへ行ってしまわれた。

10. 公案 1

宗覚師が修行されたのは臨済宗国秦寺派で、逸外老師が管長になられた妙心寺派とはちがった。本来であれば、私も師匠と同じ国秦寺で修業をすべきであった。
しかし私には逸外老師の弟子でありたいという思いがあったので、真福禅寺の小僧をしながら妙心寺派の正眼寺に直参(じきさん)していた。そこで、しばしば正眼寺住職の谷耕月師の接心(せっしん)を受けることもあった。
管長職をされていた逸外老師にお目にかかる機会は限られていたが、月に一度ほど宗覚師を訪ねていらっしゃることがあった。

ある日、真福禅寺にいらした逸外老師が私を見かけて、こう尋ねた。
「谷耕月師からは、どんな公案を授けられたかね?」
公案とは禅宗において師から弟子に出される「問い」のことをいう。
この「問い」を座禅しながら熟考し、自分なりの「答え」を見出して、師と向き合う。
生半可な答えは師に一蹴される。このやり取りが、いわゆる「禅問答」である。