2009年7月10日金曜日

2.仲間たち 4

三部とよばれるのは私のような一般学生だった。一般学生といっても曲者ぞろいだった。寮で同室だった吉本(仮名)は元自衛官だった。 当時二十代半ばだった彼は背が高く筋骨隆々としていて、無口だった。この吉本君には、かの先輩の岡野(仮名)も一目置いていた。なぜなら一度殴りかかろうとして、逆に投げ返されてしまったことがあるからだ。聞けば極真空手の有段者だという。自衛隊でレンジャー部隊の教官をしていた彼がこの大学にやってきた所以はこうだ。新宿の歌舞伎町でやくざ五人を相手に喧嘩をし、相手を半殺しの目にあわせたせいで自衛隊を懲戒免職処分となる。
そして行き場のないまま彷徨しているときに、なにかの縁で逸外老師に出会い、そのままここに連れてこられたのだという。

一般学生の中には知的障害のあるものもいた。 九州の綱元の息子だという彼がこの大学に来た理由はわからなかったが、逸外老師は来るものを誰も拒まず、とくに我々のような風変わりの者を殊の外かわいがった。

2009年7月9日木曜日

2.仲間たち 3

二部生とよばれる学生は企業からの派遣だった。この大学が設立された時、理事長である逸外老師の「人間を作りたい」という理念に共鳴した企業が多額の寄進をした。そして将来の幹部候補生たちを送り込んだ。

当時の逸外老師は有名人で、各界からの信頼が厚かった。特に話題になったのは、巨人軍の川上哲治氏が逸外老師に師事していたことだ。私は在学中に正眼寺で何度も川上監督の姿を見かけた。長島茂雄氏や王貞治氏と言葉を交わしたことさえある。巨人軍が破竹のV9を達成した時代のことだ。

同期だった寺田(仮名)は大日本土木から派遣されており、東大出の二十五歳だった。何事においてもリーダーシップを発揮していた彼は会社に戻ってからも出世コースに乗り、現在、幹部として活躍していると聞く。

2009年7月8日水曜日

2. 仲間たち 2

入学したその日に私はバリカンで髪を切られ丸坊主にされ、五人部屋の寮に入れられた。皆より一ヶ月遅れて入学した私は、すぐに周囲に溶け込めるかどうか心配だった。部屋は先輩である二回生も同室で、新入生に睨みをきかせていた。衣を着たその先輩の名は岡野(仮名)といい、年齢が三十歳に近く、背も高く、皆に怖がられていた。
衣を着ているのは一部生の証で、袴姿の二部生、三部生と区別されていた。
一部生というのは将来僧侶になるために入学した学生をいい、寺の息子が多かった。岡野もどこかの寺からこの大学に送られてきたのだが、ガラが非常に悪かった。
いつも衣の袖を大きく振りながら歩き、むやみに人を殴った。
寺の出でもあるにもかかわらず元やくざという噂があり、実際、小指がなかった。

同期の一部生には寺の息子もいた。
正田(仮名)という名の大きな寺院の息子とは、同室だった。寺が跡取り息子をこの大学に入れたがるのには理由があった。禅宗では、四年制大学卒業後、三年間の僧堂での研修が教師資格(住職の資格のこと)の条件だった。
しかし、この大学を二年終えると二年間の僧堂での研修と同等に扱われたため、卒業後、あと一年修行をすれば資格を得られた。つまり住職への最短コースだった。
しかも正眼寺は臨済宗の中でも権威があったので、ここを出ればエリートとして扱われた。だから寺の住職たちはこぞって息子達をこの大学に入れたがったのだが、当の息子達は来るのを嫌がった。
というのは天下の鬼僧林(おにそうりん)とよばれるほど、修行が厳しいことで有名だったからだ。

2009年7月7日火曜日

2. 仲間たち 1

二度目に栗山に大学へ連れて行かれたときにも、また逸外老師に会った。
その時、老師は私に「あんたはどこの出身かね?」と訊ねた。
私は「岐阜です」と答えた。 
すると老師は、にこっと笑い「あんた、お坊さんになりんさい」と言った。

この大学への進学を決めたが、私の家にはお金がなかった。
けっして高い入学金ではなかったが、その時私の母がなんとか集めてくれたお金は入学金の半分に満たなかった。
そのことを大学に伝えると、事務局を通して「お金のことは後から考えればええ」という老師の言葉が返ってきた。
入学した後も私は授業料を払うことができなかったが、特に催促されることもなかった。一緒に入学した仲間たちにも学費を納めていない者たちが多くいた。
そこは私と同じように事情を抱えた人間が集まる不思議な場所であった。

2009年7月6日月曜日

1.正眼短期大学 2

預けられた寺には一歳年上の栗山(仮名)という小僧さんがいて、正眼短期大学の一回生だった。彼が冬休みで寺に帰っていた時に、私をバイクの後ろに乗せて彼の通う大学に遊びに連れて行ってくれたことがある。
学校の長い渡り廊下を二人で歩いている時に、向こうから小柄で凛としたお爺さんのお坊さんがやってくるのに出くわした。栗山がすぐに挨拶をするとそのお坊さんも合掌して挨拶を返した。
そして私のことを見て「新入生かね?」と訊ねた。
いきなり声をかけられ戸惑っている私の代わりに、栗山が私の素性を説明した。
聞き終わると、そのお坊さんは私のほうを向き、この大学に来るように薦め、そして「待っているからね」と付け加えた。それが当時、正眼寺の住職で大学の理事長でもあった梶浦逸外老師との出会いだった。

卒業を控えていたが、私には行き場がなかった。
剣道の特待生として推薦を受けていた大学への進学も、また初級公務員試験合格もふいになっていた。そんな時に、この大学の存在を知って、私は学校案内のパンフレットを取り寄せた。
全寮制のとても小さな大学だった。 短大だから一回生と二回生しかなく、それぞれの定員が三十名だった。モノクロのパンフレットは当時のものとしてはみすぼらしく、そこに写っていた学生はみな剃髪をした丸坊主、服装は袴姿。 
まるで明治か大正時代の格好だった。持参品に鎌、斧、地下足袋と書かれていた。 
作務に必要とのことだった。
作務とは禅寺で禅僧がおこなう農作業や掃除などの労働をいう。 
禅宗には「一日作務なさざれば一日くらわず」との言がある。
もともと「般若林(はんにゃりん)」とよばれる僧侶のための修行道場があった場所を、一般学生を受け入れるよう学校法人化した所だったので、そこでの生活は僧堂そのものだった。

2009年7月5日日曜日

思い出 1.正眼短期大学 1

私は木立の中にある長い石段の前に佇んで、これからの新しい生活に不安な思いをめぐらせていた。私は、鎌、斧、地下足袋の入った鞄を肩に掛けなおし、重い足取りで一歩一歩、石段を登った。
山門をくぐると本堂の前にしだれ桜の木があったが、花はすでに散った後だった。
ここは岐阜県美濃加茂市の伊深(いぶか)にある正眼時(しょうげんじ)という臨済宗妙心寺派のお寺で、ここの境内にある正眼短期大学というのが私のこれからの生活の場だった。

その大学は「伊深の少年院」ともよばれ、地元のの不良少年たちに怖れられていた。少年院に行くはずだった私がそれを免れたのは、家庭裁判所の判事が私の家庭環境では少年院に送っても更生は難しかろうと考えたからだ。
代わりに私は裁判官の遠戚である住職がいる禅寺に預けられることとなった。
その寺から二十五キロの距離、昔で言うならば六里の距離を二時間半かけて高校に通い、皆より遅れて五月に卒業した。