入学したその日に私はバリカンで髪を切られ丸坊主にされ、五人部屋の寮に入れられた。皆より一ヶ月遅れて入学した私は、すぐに周囲に溶け込めるかどうか心配だった。部屋は先輩である二回生も同室で、新入生に睨みをきかせていた。衣を着たその先輩の名は岡野(仮名)といい、年齢が三十歳に近く、背も高く、皆に怖がられていた。
衣を着ているのは一部生の証で、袴姿の二部生、三部生と区別されていた。
一部生というのは将来僧侶になるために入学した学生をいい、寺の息子が多かった。岡野もどこかの寺からこの大学に送られてきたのだが、ガラが非常に悪かった。
いつも衣の袖を大きく振りながら歩き、むやみに人を殴った。
寺の出でもあるにもかかわらず元やくざという噂があり、実際、小指がなかった。
同期の一部生には寺の息子もいた。
正田(仮名)という名の大きな寺院の息子とは、同室だった。寺が跡取り息子をこの大学に入れたがるのには理由があった。禅宗では、四年制大学卒業後、三年間の僧堂での研修が教師資格(住職の資格のこと)の条件だった。
しかし、この大学を二年終えると二年間の僧堂での研修と同等に扱われたため、卒業後、あと一年修行をすれば資格を得られた。つまり住職への最短コースだった。
しかも正眼寺は臨済宗の中でも権威があったので、ここを出ればエリートとして扱われた。だから寺の住職たちはこぞって息子達をこの大学に入れたがったのだが、当の息子達は来るのを嫌がった。
というのは天下の鬼僧林(おにそうりん)とよばれるほど、修行が厳しいことで有名だったからだ。
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