2009年5月15日金曜日

2. 因縁

私の俗名は武藤であるが、この地には多くの武藤姓が住んでいた。
私は自分の先祖を調べて、五代前と六代前、七代前の先祖に僧侶がいたことが分かった。
五代前は禅海道喜(ぜんかいどうき)禅師、六代前は豊恂義覚(ほうじゅんきかく)大和尚、七代前は慈海了空(じかいりょうくう)大禅師と名乗る江戸時代中期の人だった。

慈海了空大禅師は真言密教を研鑽し、後に天台宗の僧侶になり晩年は禅師の号を授かり七十四歳で遷化(せんげ:亡くなること)した。
慈海了空大禅師は高賀山、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)の三山を一昼夜山駈けし、六神社を参拝する抖藪行(とそうぎょう)の中興の祖であった。
抖藪行(とそうぎょう)とは歩く修行のことである。

長良川と板取川に挟まれた高賀山脈には、高賀山の山脈に高賀神社があり、山の北側に本宮神社、新宮神社、東側には星宮神社が鎮座し、瓢ヶ岳の南の山麓には金峰神社、今淵ヶ岳の南の山腹には瀧神社がある。
この六社をめぐる「高賀六社めぐり」という信仰集団が形成され、江戸時代の中期から後期にかけて活躍した。
慈海了空大禅師はその中心的な存在だったと思われる。

2009年5月14日木曜日

1. 導かれて 4

私は禅宗から仏門に入り、この場所を訪れたときは天台宗の修行僧であった。
後に真言宗の修行をすることになるのだが、関心はつねに山岳信仰にあった。

私はその頃、毎月どこかの山に登っていた。
帯広の剣山、出羽三山、富士山、立山、木曾御嶽山、伊吹山、養老山脈、御在所岳、熊野三山、葛城山、四国の剣山、石鎚山、英彦山、求菩提山、開聞岳、などである。
修行で訪れた場所でもあり、普通の登山の場合もあった。

最初に訪れてから私は『洞戸村史』等を手に入れ高賀山を調べ始めた。
するとそこが、かつて白山の禅定門(ぜんじょうもん)と呼ばれた山であることを知った。
この地には奈良時代の中期から多くの修験者が集まり修行の場とした。
修験者は高賀山を入り口にして峰々をつたい白山まで行ったそうだ。 

私は何度か高賀山に登り白山への道を探したが見つけられなかった。
しかし、その頃には高賀という山の魅力にとらわれ逃れられなくなっていた。
調べるほどに、この土地と私の因縁が深いことがわかってきたからだ。

2009年5月13日水曜日

1.導かれて 3

標高1224メートルのその山は岐阜県の中濃地区で一番高い山だ。
瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)と共に高賀三山と呼ばれ、大きな山塊をなしている。

山腹には高賀神社があった。
神社の近くに円空記念館があって、この場所が円空ゆかりの地であることが分かった。
円空とは江戸時代の前期に活躍した天台宗の僧侶で、「円空仏」とよばれる多くの木彫りの仏像を作った仏師として知られていた。
美濃国(現在の岐阜)に生まれ、白山信仰の修験者(しゅげんじゃ)となった。

修験者というのは一つの寺に定着せず、あちこちの霊山を巡り修行するものをいう。 
円空は日本各地を巡り仏像を残した。
その数は十二万体におよぶという。
その彼が晩年を過ごしたのが、高賀だった。

私は記念館に納められた三十体あまりの仏像を眺めて大きな感銘を受けた。
円空は優婆塞(うばそく)の修験者から、後に禅・真言密教を経て、天台宗寺門派の僧侶になっていくのだが、私も同じ経験をしていることを思うと強い因縁を感じずにはいられなかった。
優婆塞とは在家の仏教信者のことだ。

2009年5月12日火曜日

1. 導かれて 2

その声のことがいつまでも気になっていた私は、実家に帰った折、母にそのことを告げた。
おかしなことを言うと返されると思っていたが、母の返事は意外なものだった。
「それは高賀山のことやろう」と言った。
「高賀山てなんや?」
「洞戸(ほらど)の高賀山やがな」
「実家のある洞戸か?」
「そうや」

両親の実家は岐阜の洞戸(現在は関市洞戸地区)というところにあった。
子供の頃によく訪れた土地だが、高賀山のことはそのときまで知らなかった。
しばらくしてから、岐阜市内にある自宅から車で一時間ほどかけて、その場所を訪れてみた。
国道265号線を板取川に沿って北上すると洞戸村に着く。 
高賀山はその北端にあった。