預けられた寺には一歳年上の栗山(仮名)という小僧さんがいて、正眼短期大学の一回生だった。彼が冬休みで寺に帰っていた時に、私をバイクの後ろに乗せて彼の通う大学に遊びに連れて行ってくれたことがある。
学校の長い渡り廊下を二人で歩いている時に、向こうから小柄で凛としたお爺さんのお坊さんがやってくるのに出くわした。栗山がすぐに挨拶をするとそのお坊さんも合掌して挨拶を返した。
そして私のことを見て「新入生かね?」と訊ねた。
いきなり声をかけられ戸惑っている私の代わりに、栗山が私の素性を説明した。
聞き終わると、そのお坊さんは私のほうを向き、この大学に来るように薦め、そして「待っているからね」と付け加えた。それが当時、正眼寺の住職で大学の理事長でもあった梶浦逸外老師との出会いだった。
卒業を控えていたが、私には行き場がなかった。
剣道の特待生として推薦を受けていた大学への進学も、また初級公務員試験合格もふいになっていた。そんな時に、この大学の存在を知って、私は学校案内のパンフレットを取り寄せた。
全寮制のとても小さな大学だった。 短大だから一回生と二回生しかなく、それぞれの定員が三十名だった。モノクロのパンフレットは当時のものとしてはみすぼらしく、そこに写っていた学生はみな剃髪をした丸坊主、服装は袴姿。
まるで明治か大正時代の格好だった。持参品に鎌、斧、地下足袋と書かれていた。
作務に必要とのことだった。
作務とは禅寺で禅僧がおこなう農作業や掃除などの労働をいう。
禅宗には「一日作務なさざれば一日くらわず」との言がある。
もともと「般若林(はんにゃりん)」とよばれる僧侶のための修行道場があった場所を、一般学生を受け入れるよう学校法人化した所だったので、そこでの生活は僧堂そのものだった。
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