千日回峰行を終えた私は、引き続き「六社巡り」をする。
これには洞戸村の武藤村長も協力してくれて、村をあげて高賀修験復興の機運が高まった。また天台宗の行者が岩場から琵琶湖に飛び込む荒行にならって、私は「入水往生(じゅすいおうじょう)」という行を始めた。これは、三千淵で亡くなった三千人の僧侶の慰霊と、また水の事故で亡くなった方々の供養の意味を込めて、橋の上から投身をした。これは毎年、夏に行い、今も続けている。
これらのことをおこなったが、私が望んだ蓮華峯寺の復興はならなかった。
その大きな理由は私の支援者であった船戸行雄氏が亡くなってしまったことによる。船戸氏は蓮華峯寺再建のための青写真を描いていた。しかし、私の望んだ泉の湧く場所ではなく、自分の所有する土地でのことだった。私が閼伽水(あかすい)を汲んだ泉は、船戸氏が作った林道の土砂によって埋もれてしまった。船戸氏が作った林道は山を切り裂いて、動物たちの棲む場所を奪った。山にいた猪やサルたちは、しばしば里にあらわれ作物を荒らした。
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