月の輪熊に出会ったこともある。それは十一月のことで、熊は冬眠の前だった。
やはり峠に向かう勾配を登っているときに、熊が草叢の中に腰掛け、自分の手を嘗めている場面に出くわした。それまでになんどか見かけたことのある熊だった。懸命に手を嘗めているしぐさがなんとも愛らしく、私は足を止めてしばらくその姿を眺めていた。すると熊がこちらに気がつき、目が合った。
「しまったっ」とおもった。
私はすぐさま危険を感じ、下に向かって駆け下りた。熊はうなり声あげて向かってきた。私は木の枝につかまりながら、岩と岩の間を飛び跳ねていった。人はこんなこともできるのだなと我ながら感心するほどに、私はすばやく駆け下り、崖に回りこんで不動の岩屋に登った。熊は岩屋の下の道を止まらずにまっすぐに駆け抜けていった。
後に大峰山奥駆(おおみねさんおくがけ)で修行をしたときに、大日岳から前鬼坊の太古の辻までをどれだけの時間で駆け下りることができるか、競争したことがある。普通の登山者は一時間から一時間半かかるといわれる距離を、修験者は山駆けして四十分ほどで下りる。私は木の枝をつたい跳躍をくり返し、二十分で駆け下りた。修験者が天狗に例えられるのも、故のあることだと思った。
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