光は星や隕石とも通じる。 昔は、星が山に落ちてきて、それが、金、銀、銅などの鉱物になると信じられてきた。 私は船戸氏の紹介で高賀神社の宮司と知遇を得た。 宮司は、かつて山師として仕事をしていたことがあり、鉱脈を探して山に入ったという。 この宮司も武藤姓だった。 名前を武藤三郎といい、よくよく話を聞いてみると私とは遠縁の親戚同士で、私の父方の祖父である武藤徳之助のことを知っていた。 母方の祖父である石場金治のこともよく知っていた。 若い頃、よく祖父と一緒に山に入ったと教えてくれた。
高賀山では多種の鉱物が採取された。 そのことは修験者と深い関わりがあった。 山を舞台に生活を営む人々ー金属採取者、木地師(きじし)、杣人(そまびと)、狩人、鉄山師、炭焼きーは、平地を生活の場とする農耕民とは違った特別な存在と見られていた。 山伏といわれる修験者は、そのような山の民と関わりを持ちながら、独特の文化を形成していったのだ。 鉱山の発掘は戦国大名が本格的に始める以前は、山伏が行っていた。 修験道における護摩などの火を使う修法は、その根底に鉄などの精錬を行う踏鞴師(たたらし)などの金属文化との関わりを暗示している。
彼らの火を扱う技術は、きわめて聖なるものとして秘術になったのだ。
2009年11月2日月曜日
2009年10月30日金曜日
霊場 4
高賀山は「秀でて高き故まためでたい」という意味で名付けられたという。その由来が高賀神社に伝わる「高賀宮記録」に記されている。
「そもそも当宮(高賀神社のこと)の始まりは、霊亀年中より夜な夜な怪しい光が都の上空を飛び交い、人々を驚かしては、北東の方角へ飛び去って行った。
養老元年、御門より都の北東の位置にある山々を捜索するよう藤原家の家臣に命令が出された。藤原家の家臣団は、当山をはじめ、方々の洞、谷を捜索しても怪しい光の出所は解らなかった。数日、当所に留まったがその正体は知れず、そのまま都へ帰ることもできず、当山麓に神壇を設け、国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・吾屋煋根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大日霊貴・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜鵐草葺不合尊・素戔鳴尊・天御中主尊・太玉命・天児屋根尊・猿田彦尊・金山彦尊・日本武尊を御本神とした。
八百万の神を鎮座させ、十七日間退魔のご祈祷をしたところ怪しい光は出なくなった。この山は特別高く、人々は喜んで社を建立したことから、山を高賀山と名付けた。」(「高賀宮記録」訳 『洞戸村史』)
「そもそも当宮(高賀神社のこと)の始まりは、霊亀年中より夜な夜な怪しい光が都の上空を飛び交い、人々を驚かしては、北東の方角へ飛び去って行った。
養老元年、御門より都の北東の位置にある山々を捜索するよう藤原家の家臣に命令が出された。藤原家の家臣団は、当山をはじめ、方々の洞、谷を捜索しても怪しい光の出所は解らなかった。数日、当所に留まったがその正体は知れず、そのまま都へ帰ることもできず、当山麓に神壇を設け、国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・吾屋煋根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大日霊貴・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜鵐草葺不合尊・素戔鳴尊・天御中主尊・太玉命・天児屋根尊・猿田彦尊・金山彦尊・日本武尊を御本神とした。
八百万の神を鎮座させ、十七日間退魔のご祈祷をしたところ怪しい光は出なくなった。この山は特別高く、人々は喜んで社を建立したことから、山を高賀山と名付けた。」(「高賀宮記録」訳 『洞戸村史』)
2009年10月11日日曜日
老師と行く高野山、京都ツアー

2009年9月26日土曜日
10月31日(土)出版記念パーティー 開催
場所:青山一丁目 FIAT社のショールーム地下1階 FIAT SPACE
住所 : 港区北青山1-4-5 ロジェ青山B1F (外苑のイチョウ並木のすぐそば)
電話番号 : 03-5771-7660
最寄り駅 : 東京メトロ銀座線、半蔵門線、都営大江戸線で青山1丁目下車徒歩2分
時間 : 16:00から18:00まで 受付開始時間 : 15:40から
会費 : 8000円
お申し込み方法 : info@syakusyorin.com
(参加される方のお名前、ご住所、お電話番号をお書き添えくだい。)
あるいはお電話でtel:03-5939-9011 釈正輪マネージメントオフィス (担当 金子)
お申し込み締め切り:10月23日
お申し込み後、こちらから案内状を送付させていただきます。当日は案内状をご持参ください。
住所 : 港区北青山1-4-5 ロジェ青山B1F (外苑のイチョウ並木のすぐそば)
電話番号 : 03-5771-7660
最寄り駅 : 東京メトロ銀座線、半蔵門線、都営大江戸線で青山1丁目下車徒歩2分
時間 : 16:00から18:00まで 受付開始時間 : 15:40から
会費 : 8000円
お申し込み方法 : info@syakusyorin.com
(参加される方のお名前、ご住所、お電話番号をお書き添えくだい。)
あるいはお電話でtel:03-5939-9011 釈正輪マネージメントオフィス (担当 金子)
お申し込み締め切り:10月23日
お申し込み後、こちらから案内状を送付させていただきます。当日は案内状をご持参ください。
2009年9月25日金曜日
2009年9月19日土曜日
2009年9月12日土曜日
霊場 3
私が師事した阿闍梨は、日本という国が持つ神秘の力を信じていた。私が歩いた道のりを阿闍梨は先に歩いていた。阿闍梨が遷化したあと、私も師匠を見習い、夜空を見上げるようになった。十五夜には月を相手に酒を飲んだ。冬の夜空は北斗七星が高くなるので、毎晩のように星空を見た。星の光は大小さまざまに地上に降り注ぎ、その光の大小に応じた山をつくる。山は地の星なのだ。密教で行う北斗供(ほくとく)の本尊は北斗七星である。高賀山を巡る六つの神社は、高賀山を北極星とした北斗七星を模している。
2009年9月11日金曜日
霊場 2
西洋にレイラインという考え方がある。イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが、二十世紀の初頭に提案した考えだ。彼はイギリスにある巨石遺跡群が一直線上に点在することを発見した。巨石遺跡がある場所の地名に、アームレイ、キナーズレイ、ウォーブレイなどレイで終わる場所が多いことから、この古代の聖地をつなぐ直線をレイライン(Leyline)と名づけた。レイ(Ley)という英単語は草地という意味だが、古い用語法に「光」と「まっすぐな道」という意味がある。以後、世界中で霊的な場を結びつける直線を探すレイハンターが多く現れた。私もこれに倣い、地図のうえで、実際に行った霊場に丸をつけ線で結んだ。その何本もの直線が重なったところに高賀山が日本という国のちょうど中心にあると確信していた。現在、高賀山があるのは関市だが、この関を境に、東を関東、西を関西といった。
2009年9月10日木曜日
霊場 1
私は日本の霊場を回っていた。北海道の剣山、東北の出羽三山、恐山、岩木山、磐梯山、早池峰山、葉山、関東の高尾山、赤木山、筑波山、日光山、大山、榛名山、箱根山、北陸の白山、立山、石動山、八海山、妙高山、中部の富士山、木曽御嶽、戸隠山、秋葉山、飯縄山、伊豆山、金峰山、養老山脈、伊吹山、御在所岳、近畿の熊野、大嶺山、吉野山、葛城山、金剛山、比叡山、比良山、愛宕山、笠置山、鞍馬山、生駒山、中国地方の後山、四国の石鎚山、剣山、象頭山、九州の英彦山、開聞岳、求菩提山。
サラリーマン時代に休日を使って登山した山もあり、托鉢行で旅をしながら行った場所もある。高野山で大阿闍梨(だいあじゃり)について修業していた間も、折を見ては各地を回った。何年もかけて私は日本の霊場と呼ばれる場所を歩きつくした。行った先で、いつも国土地理院の発行する地図を買って持っていて、それをつなぎ合わせて大きな一枚の日本地図を作り上げた。
サラリーマン時代に休日を使って登山した山もあり、托鉢行で旅をしながら行った場所もある。高野山で大阿闍梨(だいあじゃり)について修業していた間も、折を見ては各地を回った。何年もかけて私は日本の霊場と呼ばれる場所を歩きつくした。行った先で、いつも国土地理院の発行する地図を買って持っていて、それをつなぎ合わせて大きな一枚の日本地図を作り上げた。
2009年9月7日月曜日
新刊書籍のお知らせ
9月28日(都心部は9月24日)に釈老師がSoftBank Creative社より「死ぬのに適した日などない」というタイトルで本を出版いたします。
自殺の止まらない我が国への憂い、そして、心の弱った人たちになんとか生きてほしいという願いのこもった本です。
みずからの苦しい生い立ちを経て、老師がたどり着いた境地とは?
ぜひ、お手にとってお読みください。
詳しくは、HP(URL: http://www.syakusyorin.com)の新着情報をご覧ください。
書籍の購入は一般書店および、Amazon.co.jpにてお願いいたします。
自殺の止まらない我が国への憂い、そして、心の弱った人たちになんとか生きてほしいという願いのこもった本です。
みずからの苦しい生い立ちを経て、老師がたどり着いた境地とは?
ぜひ、お手にとってお読みください。
詳しくは、HP(URL: http://www.syakusyorin.com)の新着情報をご覧ください。
書籍の購入は一般書店および、Amazon.co.jpにてお願いいたします。
2009年9月6日日曜日
マザー・テレサ 6
マザー・テレサは言う。
「見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」
私が見た先ほどの男性も自分の死期を悟り、ここへ来た。彼は異教徒からの施しをいさぎよしとせずにコップの水を拒んだが、最期にシスターらの優しさに触れ、感謝の言葉を述べた。そして来世では人のために尽くしたいと語ったという。老人と見えたが、実際は四十代だったそうだ。インドには彼のような恵まれない人々が多くいて、マザー・テレサは彼らの為に一生をささげた。
私は来訪の目的を、自分が師匠を失いどのように生きたらよいか迷っていて、ここに来ればなにかわかるのではないかと思ったと告げた。マザー・テレサの言葉はこうだった。
「あなたが日本という素晴らしい国に生まれ、男性であり、いま僧侶であるという事実は変えようのないことでしょう。ならば、その運命を受け入れ、出来ることを坦々としなさい」
ミルクティーを頂きながら話した時間は二十分程度であったろう。しかしこの出会いは、私に大きな覚醒をもたらした。それ以来、私は宗派にこだわらずに自分の道を行こうと心に決めた。
「見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」
私が見た先ほどの男性も自分の死期を悟り、ここへ来た。彼は異教徒からの施しをいさぎよしとせずにコップの水を拒んだが、最期にシスターらの優しさに触れ、感謝の言葉を述べた。そして来世では人のために尽くしたいと語ったという。老人と見えたが、実際は四十代だったそうだ。インドには彼のような恵まれない人々が多くいて、マザー・テレサは彼らの為に一生をささげた。
私は来訪の目的を、自分が師匠を失いどのように生きたらよいか迷っていて、ここに来ればなにかわかるのではないかと思ったと告げた。マザー・テレサの言葉はこうだった。
「あなたが日本という素晴らしい国に生まれ、男性であり、いま僧侶であるという事実は変えようのないことでしょう。ならば、その運命を受け入れ、出来ることを坦々としなさい」
ミルクティーを頂きながら話した時間は二十分程度であったろう。しかしこの出会いは、私に大きな覚醒をもたらした。それ以来、私は宗派にこだわらずに自分の道を行こうと心に決めた。
2009年9月5日土曜日
マザー・テレサ 5
私が呆然とその場で立ちすくんでいると、施設の中から小柄なシスターが出てきて手招きした。私は周囲を見渡し、私が呼ばれていることに気がついた。そばに近づくと、手招きしたシスターはマザー・テレサ本人だった。マザーは、私がここに来たことを最初の日から聞いていたと言い、「日本のお坊さんでしょう?」と尋ねた。私は合掌してから、「はい、そうです」とうなずいた。マザーは私の手を取った。そして私の腰に手をかけ、部屋に招き入れた。
マザーが作った「死を待つ人々の家」は、路上で死にそうになっている人たちを連れてきて、最期を看取るための施設だ。ヒンドゥ教徒の国で、カトリック修道女が良く思われるはずもなく、当初は地元の強い反発があったと聞く。死にゆく人たちへの奉仕を無駄なことと考える人たちもいた。しかしマザーは、最期の一瞬でも人が大切に扱われることの必要性を説いた。
マザーが作った「死を待つ人々の家」は、路上で死にそうになっている人たちを連れてきて、最期を看取るための施設だ。ヒンドゥ教徒の国で、カトリック修道女が良く思われるはずもなく、当初は地元の強い反発があったと聞く。死にゆく人たちへの奉仕を無駄なことと考える人たちもいた。しかしマザーは、最期の一瞬でも人が大切に扱われることの必要性を説いた。
2009年9月3日木曜日
マザー・テレサ 4
中からもう一人シスターが出てきて老人を助け起こすと、ふたたびコップで水を飲まそうとした。老人は頑なにコップから水を飲むことを拒んだ。それでもシスターたちは老人に水を飲まそうとした。小一時間もの間、水を飲ませようとするシスターたちと、それを拒否する老人のやり取りがあった。あきらかに老人は力尽きようとしていた。最後に、シスターはコップから水を飲ませることをあきらめ、布に水を吸わせて老人の口に運んだ。
老人は濡れた布から水を吸った。そして安堵の表情を浮かべ、涙を流し、何か言葉を口にして、事切れた。施設の中から、また何人かのシスターが出てきて、老人の遺体を部屋に運び込んだ。そのすべてを、私は少し離れたところで見ていた。
老人は濡れた布から水を吸った。そして安堵の表情を浮かべ、涙を流し、何か言葉を口にして、事切れた。施設の中から、また何人かのシスターが出てきて、老人の遺体を部屋に運び込んだ。そのすべてを、私は少し離れたところで見ていた。
2009年9月2日水曜日
マザー・テレサ 3
その日、一人の杖をついた老人が「死を待つ人々の家」の前に立った。その老人はみすぼらしい身なりをし、体もやせ細っていた。曲がった腰で、両手を前に差し出すと、門の前で座り込んだ。一人のシスターが駆け寄り、コップに入れた水を差しだす。老人は手でコップを払いのけた。またシスターはコップの水を渡そうとしたが老人はコップを拒否し、両手を差し出して、そこに水を入れるように言った。シスターは老人の汚れた手を水で洗い、その手に水を注いだ。老人は両手に注がれた水をこぼしながら口に運び、一口含むと、崩れ落ちるように地面に倒れこんだ。
2009年9月1日火曜日
マザー・テレサ 2
誰も孤独な人間を作らない」というマザー・テレサの言葉は私に大きな感銘をあたえていた。実際に会えるかどうかわからないまま、私は門をたいた。最初に訪れたその日、マザー・テレサは隣町に行って留守だった。翌朝、訪れた時も会えなかった。昼に訪れた時も会えなかった。3日目も会えなかった。会うことを拒否しているのではないことは、対応してくれたシスターの言葉でわかった。いずれタイミングがあれば会えるであろうという希望を持って、翌日もその場所を訪れ、施設の近くにあった木の陰に立ちつくしたまま、ずっと待っていた。
2009年8月31日月曜日
マザー・テレサ 1
ふたたび師匠を失った私は彷徨(さまよ)いはじめた。
あるとき私は、衣を着て、綱代笠をかぶり、托鉢をする姿のまま、カルカッタの空港に降り立った。私には会いたい人がいた。そして、その方の居る場所を目指した。
カルカッタの郊外にその場所はあった。当時はあばら家のような粗末な場所だった。
「死を待つ人々の家」と呼ばれるその場所は、マザー・テレサが開設したホスピスだ。私は以前、マザー・テレサが来日した折に、彼女の講演を聞いていた。
あるとき私は、衣を着て、綱代笠をかぶり、托鉢をする姿のまま、カルカッタの空港に降り立った。私には会いたい人がいた。そして、その方の居る場所を目指した。
カルカッタの郊外にその場所はあった。当時はあばら家のような粗末な場所だった。
「死を待つ人々の家」と呼ばれるその場所は、マザー・テレサが開設したホスピスだ。私は以前、マザー・テレサが来日した折に、彼女の講演を聞いていた。
2009年8月30日日曜日
裏高野山 7
私はいつしかこの阿闍梨を、自分の先祖である慈海了空禅師と重ね合わせてみるようになっていた。私の尊敬する先祖はこのような人ではなかったか。いや、この人こそ先祖である慈海了空禅師が転生を重ねて私の前に現れたのではあるまいか。
結局、最後まで私は阿闍梨から名前を呼ばれることがなかった。いつも「あんた」とよばれていた。
この大恩のある師の名を、私は故あって明かすことはできない。阿闍梨が亡くなったとき、私は托鉢をしていた。知ったのは二日後のことだ。遺骨は東北の実家に帰った。
結局、最後まで私は阿闍梨から名前を呼ばれることがなかった。いつも「あんた」とよばれていた。
この大恩のある師の名を、私は故あって明かすことはできない。阿闍梨が亡くなったとき、私は托鉢をしていた。知ったのは二日後のことだ。遺骨は東北の実家に帰った。
2009年8月29日土曜日
裏高野山 6
弟子をとらない人だった。もしかしたら、私が唯一の弟子かもしれない。
ある日、修法(しゅほう)を教えようと言われ、四度加行(しどけぎょう)を授けられた。それから私の密教修業が始まった。最初の訪問から半年過ぎた頃のことだ。
密教の修法は、すべて口伝えである。孔雀明王法、北斗護摩など、あらゆる真言密教の奥義を、この阿闍梨から手取り足取り伝えられた。山に入り、斧で木を間引いてきて、自分で護摩木(ごまき)を作らされた。私はこの山で八千枚の護摩を焚いた。阿闍梨は一週間で十万枚の護摩を焚いたこともあるという。修業は阿闍梨が遷化されるまでの五年間に及んだ。私はこの阿闍梨から得度受戒を受けている。
ある日、修法(しゅほう)を教えようと言われ、四度加行(しどけぎょう)を授けられた。それから私の密教修業が始まった。最初の訪問から半年過ぎた頃のことだ。
密教の修法は、すべて口伝えである。孔雀明王法、北斗護摩など、あらゆる真言密教の奥義を、この阿闍梨から手取り足取り伝えられた。山に入り、斧で木を間引いてきて、自分で護摩木(ごまき)を作らされた。私はこの山で八千枚の護摩を焚いた。阿闍梨は一週間で十万枚の護摩を焚いたこともあるという。修業は阿闍梨が遷化されるまでの五年間に及んだ。私はこの阿闍梨から得度受戒を受けている。
2009年8月27日木曜日
裏高野山 5
阿闍梨は私と同じように全国を歩いていた。私が行った場所のことを話すと、「あまり寺ばかりに行ってもしょうがない。山を歩きなさい。そして山にある神社に行きなさい」と助言してくれた。阿闍梨の父は山伏で、阿闍梨も子供のころから山に入っていたという。
優婆塞の修験者として修業を続けていたが、五十歳の時に高野山に入り、そこで阿闍梨となった。高野山では彼を管長にしようという動きもあったと聞く。しかし、阿闍梨は権力争いに嫌気がさし、下野した。故郷が東北にあり、実家に妹さんが一人で住んでいた。晩年は度々帰郷することもあったようだ。
優婆塞の修験者として修業を続けていたが、五十歳の時に高野山に入り、そこで阿闍梨となった。高野山では彼を管長にしようという動きもあったと聞く。しかし、阿闍梨は権力争いに嫌気がさし、下野した。故郷が東北にあり、実家に妹さんが一人で住んでいた。晩年は度々帰郷することもあったようだ。
2009年8月26日水曜日
裏高野山 4
阿闍梨はよくふらりと寺からいなくなり、何ヶ月も帰ってこなかった。
寺にはちえさんが一人いて寺守をしていた。訪ねて行っても阿闍梨がいないときは、私もしかたなく托鉢行をしたりしながら家に戻った。訪ねていって阿闍梨がいたときは、何日も寺に泊まり込むのが常だった。
阿闍梨の生活は自由気ままだった。朝は遅くまで寝ていて、十時ごろ起きることも珍しくなかった。私に対してもうるさいことを言わず、寝ていたければいつ寝ても構わないと言った。夜中にふいに寺から出ていくことも多かった。
ある晩、夜十時過ぎに出かけようとするので、「どこに行くのですか」と尋ねると、「ちょっとそこまで」と言い残して出て行った。
私はこっそりと後をつけた。阿闍梨は私がついてきていることに気がついていたが、なにも言わなかった。阿闍梨が行った先は山の頂だった。崖に突き出た岩の上に座り、座禅を始めた。座禅といっても、きちんと足を組んだものではなかった。
片膝を立て、その膝の上に肘を乗せて、頬杖をついて空の月を眺めていた。
ある冬の寒い晩、阿闍梨は毛布を持って外に行き、草の上に寝転がって、星空を眺めながら寝ようとしていた。空には北極星が高く輝いていた。
私が、「お師匠、そんなところで寝たら風邪を引きます」というと、「あんたも一緒にどうかね」と逆に誘われた。
人のことを「あんた」というのが、阿闍梨の口癖だった。誰に対しても「あんた」だった。訪ねてくる尼僧にも「あんた」とよびかけていた。寺守のちえさんだけは、「ちえさん、ちえさん」と名前をよばれていた。
寺にはちえさんが一人いて寺守をしていた。訪ねて行っても阿闍梨がいないときは、私もしかたなく托鉢行をしたりしながら家に戻った。訪ねていって阿闍梨がいたときは、何日も寺に泊まり込むのが常だった。
阿闍梨の生活は自由気ままだった。朝は遅くまで寝ていて、十時ごろ起きることも珍しくなかった。私に対してもうるさいことを言わず、寝ていたければいつ寝ても構わないと言った。夜中にふいに寺から出ていくことも多かった。
ある晩、夜十時過ぎに出かけようとするので、「どこに行くのですか」と尋ねると、「ちょっとそこまで」と言い残して出て行った。
私はこっそりと後をつけた。阿闍梨は私がついてきていることに気がついていたが、なにも言わなかった。阿闍梨が行った先は山の頂だった。崖に突き出た岩の上に座り、座禅を始めた。座禅といっても、きちんと足を組んだものではなかった。
片膝を立て、その膝の上に肘を乗せて、頬杖をついて空の月を眺めていた。
ある冬の寒い晩、阿闍梨は毛布を持って外に行き、草の上に寝転がって、星空を眺めながら寝ようとしていた。空には北極星が高く輝いていた。
私が、「お師匠、そんなところで寝たら風邪を引きます」というと、「あんたも一緒にどうかね」と逆に誘われた。
人のことを「あんた」というのが、阿闍梨の口癖だった。誰に対しても「あんた」だった。訪ねてくる尼僧にも「あんた」とよびかけていた。寺守のちえさんだけは、「ちえさん、ちえさん」と名前をよばれていた。
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