2009年6月4日木曜日

9. 孤独 1

修行も二年目に入ると体がきついということもなくなったが、今度はどうしようもなく人恋しさが募ってきた。

深夜に登頂を始め、下山をするのは昼頃。山の中で出会うのは動物たちだけだ。

不動の岩屋にいるマムシたちに対しても、次第に情がわいてくる。 私は里から生卵を持ってきて、岩屋の中におくようになった。翌日にはその卵は消えていた。マムシ達には縄張りがあるらしく、最初に私が卵を一つだけ置いた場所には体の大きなマムシが居座るようになった。

私はそれから三匹のマムシのために三個の卵を持ってくるようになった。するとしばらくしてマムシの数は四匹になった。彼らは声を出さないが、明らかにお互いの意思の疎通をしていることもわかった。四匹のマムシに卵を運んでいると、マムシの数は更に増え、五匹になった。私は体の小さなマムシのために、鶏の卵とは別にうずらの卵を用意した。

2009年6月3日水曜日

8. 甘露の雨 3

雨が冷たくても、それは甘露の雨だった。
なぜ千日回峰行をやろうと思い立ったかと聞かれるたびに、私はこう答えている。
それはわが人生を恨んでのことだと。

父の因縁が常に私に覆いかぶさっていたが、なぜか父を恨む気にはならなかった。
私が恨んだのは、私の運命だった。
なぜ私は生まれてきたのか。
私は何をしようとしているのか。

私は禅宗でも天台宗でも真言宗でも修行をした。
そのどこでも私の素性が問題にされた。
私は父の代わりに師を求めた。
しかし、私をかわいがってくれた師達は皆、すでに亡くなってしまい、私は自分の居場所を探していた。

そして、武藤一族の因縁の地である高賀こそが私の居場所だと思った。

2009年6月2日火曜日

8.甘露の雨 2

(妙法蓮華経薬草諭品第五)

其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽
山川険谷 幽邃所生 卉木薬草 大小諸樹
百穀苗稼 甘蔗蒲萄 雨之所潤 無不豊足
乾地普洽 薬木並茂 其雲所出 一味之水
草木叢林 随分受潤 一切諸樹 上中下等
称其大小 各得生長 根茎枝葉 華果光色
一雨所及 皆得鮮沢 如其体相 性分大小
所潤是一 而各滋茂 

「其の雨普等にして 四方倶に下り 流樹すること無量にして 率土充ち洽(うるお)う  山川・険谷の 幽邃(ゆうすい)の生いたる所の 卉木・薬草 大小の諸樹 百穀苗稼   甘蔗・葡萄 雨の潤す所 豊かに足らざること無く 乾地普く洽い 薬木並び茂り   其の雲より出づる所の 一味の水に 草・木・叢林 分に随って潤いを受く 一切の諸樹 上中下等しく 其の大小に称(かな)ひて 各生長することを得 根・茎・枝・葉・華・果・光・色   一雨の及ぼす所 皆鮮澤するところを得 其の体相 性の大小に分れたるが如く   潤す所是れ一なれども 而も各滋茂するが如く」

(雨が降り始めると、その雨は隈なく四方に等しく降り注ぎ、全ての土地が雨の潤いを受ける。
山も川も険しい谷の奥深い所の草・木・薬草や大きな木や小さな木、いろいろな穀物や甘蔗やブドウの木や植物は全て雨の潤いを充分に受けることになる。
乾いた大地も潤い、そのお陰で薬木も繁ってくる。
雨雲からの『一味の水』によって、草や木や藪や林等がそれぞれの分に従って水を吸収するのである。
その結果、一切の木々は上中下一様にその大小の性質に従って伸びることになる。
根や茎や葉や花も実も皆、雨に濡れて美しい光沢を帯びる。
草々や木々はその種類によって大きくなるもの、小さいままのものと分かれており、同じ雨、同じ水を同じように受けてもその成長はそれぞれ異なるのである)

2009年5月31日日曜日

8. 甘露の雨 1

暑さや寒さには慣れたが、雨の日は辛かった。
修験専用のビニール製の合羽があったが、風のある日などは役に立たず、装束は濡れるとずしりと重くなった。大雨の日など水が濁流になって山道を落ちてくる。
下山のあとに、泥だらけになった衣を洗濯するのだが、替えの衣をいくつも持っているわけではない。だから雨の日が続くと、生乾きの衣を着る羽目になった。毎日の洗濯も大変だった。叔母がやってくれることもあったが、なるべくならわずらわせたくないと思い、自分でやった。

地下足袋は底がゴム製で修験専用の丈夫なものを選んだが、それも月に二、三足は履きつぶしていた。布の部分が破れ、そこから川蛭(かわひる)が入って来た。
川蛭は脚袢(きゃはん)の下をくぐり抜けて腿のあたりまで登り、血を吸った。川蛭は梅雨時には増えたので、山から降りて装束を脱ぐと、よく足にへばりついていた。大きいものは三十センチぐらいあった。

足に出来た肉刺(まめ)が潰れ、その潰れた肉刺の上に新たな肉刺が出来た。托鉢で鍛えた脚であり、千日行を始める前の準備として、すでに百日行を行っていたが、やはり毎日休みなしに続けるのは体に堪えた。風邪を引き、熱を出したこともあったが、休むわけにはいかなかった。
誰が見ているわけではなかったが、仏さまは見ていると思っていた。

2009年5月30日土曜日

7. 夏の光 2

私は腰を上げて、熊笹に囲まれた登山道を下り始めた。 御坂峠に差し掛かると、あたりは杉や檜などの人工林だ。 この先に峰稚児(みねちご)神社がある。大きな岩の上に立てられた小さな祠だ。 高賀神社の奥の院として、かつては多くの修験者が訪れた。 江戸時代には円空上人による雨乞いの祈祷が行われたという記録もある。 私はここでも法螺貝を吹き祝詞を挙げた。

登山道を五合目まで下ったところに不動の岩屋がある。中に入り蝋燭を立て読経をする。 しばらくの間、姿が見えなかったマムシたちが、また現れるようになった。マムシは三匹おり、それぞれの縄張りである岩の間に寝そべっていた。当初はとぐろを巻き警戒する様子を見せていたが、私が毎日そこに現れることがわかると、体をだらりと伸ばし鎌首をもたげることもなく、静かに私の読経を聞いていた。

岩屋を出て沢沿いの坂道を下る。足で岩を捉えて降りるのだが、毎日繰り返しているうちに、どこにどんな石があるかすっかり覚えてしまった。いまでは目をつぶっていても歩くことができるほどだ。
暑さで汗をかいていたが、岩の下を流れる水の音が涼しげで心地よい。

藪の中で猪が地面を掘っているのが見えた。ウリ坊を二匹連れているからメスだろう。 そのウリ坊がとてもかわいいのでしばらく見とれていたが、親猪が気配に気がついてこちらを見たので、あわてて足早にその場を立ち去った。野生の動物は目を合わせると危険だ。

途中、双葉葵(ふたばあおい)が群れて生えている場所を通ったが、葉っぱが食べられていて葉柄だけが残っていた。おそらく鹿だろう。 秋に日本カモシカが五、六頭で群れを作っていたのを目撃した。群れを見るのはとても珍しいことだ。

沢に小さな渡し木がかかる場所があり、その近くの岩の上でガマガエルが私を出迎えた。一匹の同じガマガエルがいつも同じ岩にいて、私が近づくと必ずホーッと鳴く。
このガマガエルの頭を撫でるのが私の日課だった。ガマガエルの皮膚はぬるっとしていて、確かに油を出しているようだった。ガマの油というのは本当に効くのか試してみようと、笹の葉で切った腕の傷に塗ってみたことがあるが、真っ赤に腫れ上がってしまった。ガマの油の口上はあまり信用がおけない。

木の上から山蛭が落ちてきた。山蛭は、私が下を通ると狙い定めたように首筋から背中に入った。私が山を降りて装束を脱ぐ頃には、沢山の血を吸い、真っ赤に膨れあがっていた。多いときには二十匹もの蛭が体に張り付いていた。吸われた後の痛みもさることながら、白い装束が赤く血で染まるのが困り物だった。

沢地を抜けると人工林が続く。現在の高賀山は、杉や檜などの針葉樹の植林が進み自然林が少なくなっている。人工林には野生の動物が住むことができない。最近はこれらの動物らが里に現れて、作物を荒らしているという。山奥に食べ物がなくなったせいだ。林道を通す計画が修行をしているこの時期に始まったが、それが出来ることによる自然破壊を思うと私の心は痛んだ。

2009年5月27日水曜日

7.夏の光 1

高賀山での夏のご来光は五時半だ。 
東の空から西に流れる雲の端が明るく輝き始めると、私は山頂から少し降ったところにある天狗岩に登って法螺貝を吹いた。
登ってくる太陽に向かって三礼をして護身法を切る。
「いらたか」とよばれる算盤玉の形をした念珠をすり合わせた。
錫杖(しゃくじょう)を振りながら、懺悔文、開経偈(かいきょうげ)、般若心経を三巻読み、回向文(えこうぶん)を唱え、消災呪(しょうさいしゅう)、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、ふたたび回向文を唱えた。
次に太陽に向かって大日如来の真言を二十一回唱え、北に向かって釈迦如来の真言を十七回、東に向かって薬師如来の真言を十七回、南に向かって阿閦如来(あしゅくにょらい)の真言を七回、西に向かって阿弥陀如来の真言を七回唱える。
それから光明真言(こうみょうしんごん)を二十一回唱え、本覚讃(ほんがくさん)を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍唱え、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれら衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と回向文を唱えた後、法螺貝を吹き、太陽にむかって再び三礼をした。
それから腰をおろして、お供えしてあったそば粉の団子とこうせん粉の団子を食し、水筒に入れてきた熱いお茶を飲んだ。

早朝の山頂は涼しくて心地よい。
東の方角には御嶽山が見える。西には伊吹山、南の方角には白々ヶ峰が連なり、北の方角には蕪山が間近に見える。山の自然にもすっかり親しんできた。

2009年5月24日日曜日

6. 定め

行を行うものはそれによって得られる名誉栄達を求めていると思われがちだが、そうではない。
比叡山で千日回峰行を二回満行された酒井雄哉氏にしても、仏門を志すきっかけに妻の自殺があったという。そこには言い尽くせぬ苦しい思いがあったに違いない。

人は誰しも業を背負って生きている。
この業は宿命とも宿業ともいい、ときに「定め」ともいう。
自分はやくざの息子に生まれたという定めが、私を苦しめつづけた。
変えられない定めに、私は何故生まれてきたのか、何をなすべきなのかをいつも考えていた。

千日回峰行は、行の途中で挫折をすれば自ら命を断つ掟を持つ。 
私は挫折したら死ぬ覚悟を決め、そのための短刀を持ち腰につけていた。
山頂でまず唱えるのが懺悔文である。

我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)

「我れ昔より造りし所の諸々の悪業は、皆、無始の貧瞋痴に由り、身語意より生ずる所なり。一切、我れ、今、皆、懺悔したてまつる。」

これは、「私が昔から作ってきたいろいろの悪い行いは、みな避けがたい貪りと怒りと無知による身体と言葉と意識のなす行為から生じたものであります。その全てを、今、御仏の前に悔い改めます」という意味である。

私は自分の生い立ち、そして若き日の悪行を恥じていた。 
回峰行を始めて最初のひと月ほどは肉体的に精一杯だったが、五月ともなると徐々に身体も慣れてきて、ものを考える余裕がでてきた。
そうすると心に浮かぶのは過去のことばかりになった。
私は自分の過去を思うと、このまま山で死んでしまっても構わないとさえ思うようになった。