私は腰を上げて、熊笹に囲まれた登山道を下り始めた。 御坂峠に差し掛かると、あたりは杉や檜などの人工林だ。 この先に峰稚児(みねちご)神社がある。大きな岩の上に立てられた小さな祠だ。 高賀神社の奥の院として、かつては多くの修験者が訪れた。 江戸時代には円空上人による雨乞いの祈祷が行われたという記録もある。 私はここでも法螺貝を吹き祝詞を挙げた。
登山道を五合目まで下ったところに不動の岩屋がある。中に入り蝋燭を立て読経をする。 しばらくの間、姿が見えなかったマムシたちが、また現れるようになった。マムシは三匹おり、それぞれの縄張りである岩の間に寝そべっていた。当初はとぐろを巻き警戒する様子を見せていたが、私が毎日そこに現れることがわかると、体をだらりと伸ばし鎌首をもたげることもなく、静かに私の読経を聞いていた。
岩屋を出て沢沿いの坂道を下る。足で岩を捉えて降りるのだが、毎日繰り返しているうちに、どこにどんな石があるかすっかり覚えてしまった。いまでは目をつぶっていても歩くことができるほどだ。
暑さで汗をかいていたが、岩の下を流れる水の音が涼しげで心地よい。
藪の中で猪が地面を掘っているのが見えた。ウリ坊を二匹連れているからメスだろう。 そのウリ坊がとてもかわいいのでしばらく見とれていたが、親猪が気配に気がついてこちらを見たので、あわてて足早にその場を立ち去った。野生の動物は目を合わせると危険だ。
途中、双葉葵(ふたばあおい)が群れて生えている場所を通ったが、葉っぱが食べられていて葉柄だけが残っていた。おそらく鹿だろう。 秋に日本カモシカが五、六頭で群れを作っていたのを目撃した。群れを見るのはとても珍しいことだ。
沢に小さな渡し木がかかる場所があり、その近くの岩の上でガマガエルが私を出迎えた。一匹の同じガマガエルがいつも同じ岩にいて、私が近づくと必ずホーッと鳴く。
このガマガエルの頭を撫でるのが私の日課だった。ガマガエルの皮膚はぬるっとしていて、確かに油を出しているようだった。ガマの油というのは本当に効くのか試してみようと、笹の葉で切った腕の傷に塗ってみたことがあるが、真っ赤に腫れ上がってしまった。ガマの油の口上はあまり信用がおけない。
木の上から山蛭が落ちてきた。山蛭は、私が下を通ると狙い定めたように首筋から背中に入った。私が山を降りて装束を脱ぐ頃には、沢山の血を吸い、真っ赤に膨れあがっていた。多いときには二十匹もの蛭が体に張り付いていた。吸われた後の痛みもさることながら、白い装束が赤く血で染まるのが困り物だった。
沢地を抜けると人工林が続く。現在の高賀山は、杉や檜などの針葉樹の植林が進み自然林が少なくなっている。人工林には野生の動物が住むことができない。最近はこれらの動物らが里に現れて、作物を荒らしているという。山奥に食べ物がなくなったせいだ。林道を通す計画が修行をしているこの時期に始まったが、それが出来ることによる自然破壊を思うと私の心は痛んだ。
2009年5月30日土曜日
2009年5月27日水曜日
7.夏の光 1
高賀山での夏のご来光は五時半だ。
東の空から西に流れる雲の端が明るく輝き始めると、私は山頂から少し降ったところにある天狗岩に登って法螺貝を吹いた。
登ってくる太陽に向かって三礼をして護身法を切る。
「いらたか」とよばれる算盤玉の形をした念珠をすり合わせた。
錫杖(しゃくじょう)を振りながら、懺悔文、開経偈(かいきょうげ)、般若心経を三巻読み、回向文(えこうぶん)を唱え、消災呪(しょうさいしゅう)、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、ふたたび回向文を唱えた。
次に太陽に向かって大日如来の真言を二十一回唱え、北に向かって釈迦如来の真言を十七回、東に向かって薬師如来の真言を十七回、南に向かって阿閦如来(あしゅくにょらい)の真言を七回、西に向かって阿弥陀如来の真言を七回唱える。
それから光明真言(こうみょうしんごん)を二十一回唱え、本覚讃(ほんがくさん)を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍唱え、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれら衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と回向文を唱えた後、法螺貝を吹き、太陽にむかって再び三礼をした。
それから腰をおろして、お供えしてあったそば粉の団子とこうせん粉の団子を食し、水筒に入れてきた熱いお茶を飲んだ。
早朝の山頂は涼しくて心地よい。
東の方角には御嶽山が見える。西には伊吹山、南の方角には白々ヶ峰が連なり、北の方角には蕪山が間近に見える。山の自然にもすっかり親しんできた。
東の空から西に流れる雲の端が明るく輝き始めると、私は山頂から少し降ったところにある天狗岩に登って法螺貝を吹いた。
登ってくる太陽に向かって三礼をして護身法を切る。
「いらたか」とよばれる算盤玉の形をした念珠をすり合わせた。
錫杖(しゃくじょう)を振りながら、懺悔文、開経偈(かいきょうげ)、般若心経を三巻読み、回向文(えこうぶん)を唱え、消災呪(しょうさいしゅう)、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、ふたたび回向文を唱えた。
次に太陽に向かって大日如来の真言を二十一回唱え、北に向かって釈迦如来の真言を十七回、東に向かって薬師如来の真言を十七回、南に向かって阿閦如来(あしゅくにょらい)の真言を七回、西に向かって阿弥陀如来の真言を七回唱える。
それから光明真言(こうみょうしんごん)を二十一回唱え、本覚讃(ほんがくさん)を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍唱え、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれら衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と回向文を唱えた後、法螺貝を吹き、太陽にむかって再び三礼をした。
それから腰をおろして、お供えしてあったそば粉の団子とこうせん粉の団子を食し、水筒に入れてきた熱いお茶を飲んだ。
早朝の山頂は涼しくて心地よい。
東の方角には御嶽山が見える。西には伊吹山、南の方角には白々ヶ峰が連なり、北の方角には蕪山が間近に見える。山の自然にもすっかり親しんできた。
2009年5月24日日曜日
6. 定め
行を行うものはそれによって得られる名誉栄達を求めていると思われがちだが、そうではない。
比叡山で千日回峰行を二回満行された酒井雄哉氏にしても、仏門を志すきっかけに妻の自殺があったという。そこには言い尽くせぬ苦しい思いがあったに違いない。
人は誰しも業を背負って生きている。
この業は宿命とも宿業ともいい、ときに「定め」ともいう。
自分はやくざの息子に生まれたという定めが、私を苦しめつづけた。
変えられない定めに、私は何故生まれてきたのか、何をなすべきなのかをいつも考えていた。
千日回峰行は、行の途中で挫折をすれば自ら命を断つ掟を持つ。
私は挫折したら死ぬ覚悟を決め、そのための短刀を持ち腰につけていた。
山頂でまず唱えるのが懺悔文である。
我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)
「我れ昔より造りし所の諸々の悪業は、皆、無始の貧瞋痴に由り、身語意より生ずる所なり。一切、我れ、今、皆、懺悔したてまつる。」
これは、「私が昔から作ってきたいろいろの悪い行いは、みな避けがたい貪りと怒りと無知による身体と言葉と意識のなす行為から生じたものであります。その全てを、今、御仏の前に悔い改めます」という意味である。
私は自分の生い立ち、そして若き日の悪行を恥じていた。
回峰行を始めて最初のひと月ほどは肉体的に精一杯だったが、五月ともなると徐々に身体も慣れてきて、ものを考える余裕がでてきた。
そうすると心に浮かぶのは過去のことばかりになった。
私は自分の過去を思うと、このまま山で死んでしまっても構わないとさえ思うようになった。
比叡山で千日回峰行を二回満行された酒井雄哉氏にしても、仏門を志すきっかけに妻の自殺があったという。そこには言い尽くせぬ苦しい思いがあったに違いない。
人は誰しも業を背負って生きている。
この業は宿命とも宿業ともいい、ときに「定め」ともいう。
自分はやくざの息子に生まれたという定めが、私を苦しめつづけた。
変えられない定めに、私は何故生まれてきたのか、何をなすべきなのかをいつも考えていた。
千日回峰行は、行の途中で挫折をすれば自ら命を断つ掟を持つ。
私は挫折したら死ぬ覚悟を決め、そのための短刀を持ち腰につけていた。
山頂でまず唱えるのが懺悔文である。
我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)
「我れ昔より造りし所の諸々の悪業は、皆、無始の貧瞋痴に由り、身語意より生ずる所なり。一切、我れ、今、皆、懺悔したてまつる。」
これは、「私が昔から作ってきたいろいろの悪い行いは、みな避けがたい貪りと怒りと無知による身体と言葉と意識のなす行為から生じたものであります。その全てを、今、御仏の前に悔い改めます」という意味である。
私は自分の生い立ち、そして若き日の悪行を恥じていた。
回峰行を始めて最初のひと月ほどは肉体的に精一杯だったが、五月ともなると徐々に身体も慣れてきて、ものを考える余裕がでてきた。
そうすると心に浮かぶのは過去のことばかりになった。
私は自分の過去を思うと、このまま山で死んでしまっても構わないとさえ思うようになった。
2009年5月22日金曜日
5.千日回峰行 2
山の中腹に不動の岩屋と呼ばれる場所があった。
不動の岩屋は大きな二枚の岩が重なってできていて、上の岩の下にも、下の岩の下にも大きな空洞があり、人が何人か入ることができる広さがあった。
その岩屋を通り過ぎると、石が階段状に連なる急勾配が続く。
吐息が白くなった。四月の高賀山にはまだ雪が残っていて、木々はまだ新芽を出す前だった。
里ではようやく梅の花が咲こうとしている時期のことである。
御坂峠を越えると尾根道が続く。まだ未明に山頂に着き、明けの明星を眺め、そこで再び読経を行う。しばらくすると、遠く木曾御嶽山の方角が白々と明けてくる。
やがてご来光を仰ぐと、私は肩から掛けた法螺貝を取って吹いた。
太陽はやがて山の麓を照らし、私は山頂から自分の育った場所を見下ろした。
私は自分がここにたどり着くまでの因縁に思いを馳せた。
因縁とは因果の理(ことわり)のことだ。この世の全ての事柄は原因と結果によって成されている。
ヒンドゥ教(初期バラモン教)などでは前世の業により現世が形成されると教義しているが、仏教の宗祖である釈迦は更に縁起を説いた。
縁起は縁ともいい、全ての出来事は縁がある。仏教ではそれを因果律といっている。
人は前世からの因縁によって現世の生を受ける。祖先に僧侶がいたが、私の父と母は無信心だった。私は宗教とは無縁の環境で育ち、奇妙な縁で仏門に入った。
不動の岩屋は大きな二枚の岩が重なってできていて、上の岩の下にも、下の岩の下にも大きな空洞があり、人が何人か入ることができる広さがあった。
その岩屋を通り過ぎると、石が階段状に連なる急勾配が続く。
吐息が白くなった。四月の高賀山にはまだ雪が残っていて、木々はまだ新芽を出す前だった。
里ではようやく梅の花が咲こうとしている時期のことである。
御坂峠を越えると尾根道が続く。まだ未明に山頂に着き、明けの明星を眺め、そこで再び読経を行う。しばらくすると、遠く木曾御嶽山の方角が白々と明けてくる。
やがてご来光を仰ぐと、私は肩から掛けた法螺貝を取って吹いた。
太陽はやがて山の麓を照らし、私は山頂から自分の育った場所を見下ろした。
私は自分がここにたどり着くまでの因縁に思いを馳せた。
因縁とは因果の理(ことわり)のことだ。この世の全ての事柄は原因と結果によって成されている。
ヒンドゥ教(初期バラモン教)などでは前世の業により現世が形成されると教義しているが、仏教の宗祖である釈迦は更に縁起を説いた。
縁起は縁ともいい、全ての出来事は縁がある。仏教ではそれを因果律といっている。
人は前世からの因縁によって現世の生を受ける。祖先に僧侶がいたが、私の父と母は無信心だった。私は宗教とは無縁の環境で育ち、奇妙な縁で仏門に入った。
2009年5月21日木曜日
5.千日回峰行 1
千日を行う前に、百日の前行、四十九日の加行を修し、武藤宮司から初めて入峰を許された。
回峰行は四月一日から始めた。
毎朝午前一時半に起床し、洗面を済ませると、そば粉と荒塩を混ぜて捏ねた団子と、こうせん粉に少しの砂糖を混ぜた団子を作り、袋に入れて出発する。
山は漆黒の闇に包まれていた。山に入るためには禊は不可欠である。
私は着ていた作務衣を脱いで岩場の上に置き、川の中へ入った。
四月の高賀渓谷には山頂からの雪解け水が流れ込んでいる。水の冷たさが身体を打つ。
私は一心に真言を誦(じゅ)した。
水からあがると私は先ほど脱いだ作務衣をリュックサックにしまい、持ってきた荷物の中から鈴懸(すずかけ)を取り出した。
それから掛衣(かけごろも)を首から掛け、貝ノ緒(かいのお)を巻き、尻には引敷(ひつしき)を当てる。白足袋を足に着け、手甲脚袢(てっこうきゃはん)を手足に付け、頭巾(ときん)を額にあてた。
錫杖(しゃくじょう)を手に持ち、法螺貝(ほらがい)をくびからつるし、短刀を腰に納めた。
山伏の修験装束である。禊を終え、蓮華峯寺観音堂で読経を終えると午前二時を回る。
高賀神社で祝詞をあげ終わるのが午前三時半である。
高賀神社の前の林道をしばらく行くと登山口が現れる。登山道は厳しい岩場である。
私は暗闇の中を一歩一歩、足で岩をとらえて登り始めた。
回峰行は四月一日から始めた。
毎朝午前一時半に起床し、洗面を済ませると、そば粉と荒塩を混ぜて捏ねた団子と、こうせん粉に少しの砂糖を混ぜた団子を作り、袋に入れて出発する。
山は漆黒の闇に包まれていた。山に入るためには禊は不可欠である。
私は着ていた作務衣を脱いで岩場の上に置き、川の中へ入った。
四月の高賀渓谷には山頂からの雪解け水が流れ込んでいる。水の冷たさが身体を打つ。
私は一心に真言を誦(じゅ)した。
水からあがると私は先ほど脱いだ作務衣をリュックサックにしまい、持ってきた荷物の中から鈴懸(すずかけ)を取り出した。
それから掛衣(かけごろも)を首から掛け、貝ノ緒(かいのお)を巻き、尻には引敷(ひつしき)を当てる。白足袋を足に着け、手甲脚袢(てっこうきゃはん)を手足に付け、頭巾(ときん)を額にあてた。
錫杖(しゃくじょう)を手に持ち、法螺貝(ほらがい)をくびからつるし、短刀を腰に納めた。
山伏の修験装束である。禊を終え、蓮華峯寺観音堂で読経を終えると午前二時を回る。
高賀神社で祝詞をあげ終わるのが午前三時半である。
高賀神社の前の林道をしばらく行くと登山口が現れる。登山道は厳しい岩場である。
私は暗闇の中を一歩一歩、足で岩をとらえて登り始めた。
2009年5月20日水曜日
4. 木作 2
木作という地名は、ここが木地師(きじし)の里であったことを表している。
木地師とは、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤(ろくろ)をまわして椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人達のことだ。
朝廷の由来書を持ち歩き、山々を自由に渡り歩くことが出来た。
木作の近くには小倉という地名があった。
これも木地師に多い名で、この地域一帯が木地師の里であったことを物語っている。
木地師の祖は惟喬親王(これたかしんのう)といわれる。
惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したというのが伝説だ。
発祥は滋賀といわれるが、一説にはこの木地師が忍者の祖ともいわれる。
峯々をつたって各地を巡る木地師は広範な情報網を持っていた。
その一部が戦国大名と結びつき隠密行動をするようになったと考えることは、不自然なことではない。山伏もまた峯々を歩いた。木地師は忍者と山伏の先祖で、両者は同じものだった。
史書を紐解いてみると、この高賀の里の民が甲賀の忍者のルーツであると考えられる証拠がある。
修験道が盛んなこの土地の僧侶を信長が殺さなければならなかった理由も、彼らの諜報活動にあった。
彼らを殺すことで信長は自分にとって不都合な事柄を歴史の闇に葬り去ったのだ。
そんな歴史の因縁を知るにつけ、私は自分に課せられた使命を感じずにはいられなかった。
木地師とは、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤(ろくろ)をまわして椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人達のことだ。
朝廷の由来書を持ち歩き、山々を自由に渡り歩くことが出来た。
木作の近くには小倉という地名があった。
これも木地師に多い名で、この地域一帯が木地師の里であったことを物語っている。
木地師の祖は惟喬親王(これたかしんのう)といわれる。
惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したというのが伝説だ。
発祥は滋賀といわれるが、一説にはこの木地師が忍者の祖ともいわれる。
峯々をつたって各地を巡る木地師は広範な情報網を持っていた。
その一部が戦国大名と結びつき隠密行動をするようになったと考えることは、不自然なことではない。山伏もまた峯々を歩いた。木地師は忍者と山伏の先祖で、両者は同じものだった。
史書を紐解いてみると、この高賀の里の民が甲賀の忍者のルーツであると考えられる証拠がある。
修験道が盛んなこの土地の僧侶を信長が殺さなければならなかった理由も、彼らの諜報活動にあった。
彼らを殺すことで信長は自分にとって不都合な事柄を歴史の闇に葬り去ったのだ。
そんな歴史の因縁を知るにつけ、私は自分に課せられた使命を感じずにはいられなかった。
2009年5月19日火曜日
4. 木作 1
初めて高賀の地を訪れてから数年がたった。
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。
当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。
千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。
当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。
千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?
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